ケース3 旅館㉗

 

 山の陽は短い。谷間に位置するこの場所ではなおさらだ。

 

 停電も通信も回復の目処が立たぬまま、忌沼温泉旅館に夜がおとずれようとしていた。

 

 

 

 夜の闇は庭園の方から静かにやって来きた。

 

 普段はライトアップされて美しい庭園は死んだように静まりかえっている。

 

 

 夜の闇は屍肉に群がる蟲のように庭園をじわじわと蝕んでいった。

 

 

 闇は庭園を食い尽くすと次なる獲物を求めて建物に触手を伸ばした。しかし仄かな非常灯の明かりに阻まれてうまくいかない。

 

 

 しかし狩人は慌てること無く物陰の暗がりや、明かりの死角に身を潜めて、静かに獲物が通りかかるのを待つのだった。

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 中居の妙子は別館で女将を探していた。確かに渡り廊下へ向かう女将を見たように思ったからだ。

 

 

 しかし探せども探せども一向に女将の姿は見つけられなかった。

 

 

 残るはとうとう先代の死体があるという二階だけである。

 

 

 流石に死体の側に居るはずがないと避けていたが、トイレも休憩所も部屋も隈なく探し回った後となっては避けるわけにもいかず、先程から階段の前でこうして立ち尽くしているのだ。

 

 

 そうだ……

 

 

「おかみー!! おかみー!!」

 

 

 妙子は大声で呼びかけた。

 

 我ながら二階に行かずに済む最適な方法を思いついたと誇らしい気持ちにさえなる。

 

 

「おかみー!? いませんかー!?」

 

 

 これで反応が無ければ戻ろう。そう思った矢先のことだった。

 

 

 

 バン……バン……

 

 

 

 扉を手のひらで叩くような音が聞こえた。

 

 

 

「おかみ……?」

 

 

 ここで女将に何かあっては自分の落ち度になって困ったことになる……

 

 

 妙子は嫌な予感を覚えつつも、狭い人間関係の中で確立してきた、自らの立ち位置を守ることを優先した。

 

 

 

 手摺に手をかけるとなんとなくぬるぬるした感触がして気持ちが悪い。

 

 

 妙子はあからさまに嫌な顔をして前掛けで手を拭うと手摺には触れずに階段を登っていった。

 

 

 階段はじっとりと濡れており滑りそうで怖かったが、気持ちの悪い手摺に触れるほうが嫌だった。

 

 

 

「おかみー!? 大丈夫ですかー!? ひいいぃいいいっ!?」

 

 

 

 踊り場を過ぎるとその光景に息を飲んだ。

 

 

 

 壁に無数のカタツムリが這っているのだ。

 

 

 

 

 結露だろうか? 濡れた壁からは雫が垂れ下がり、水を得たカタツムリは目一杯首や目玉を伸ばして蠢いている。

 

 

 

 

「なにこれ……??」

 

 

 

 呆気にとられて見ていると再び音が聞こえた。

 

 

 

 バン……バン……

 

 

 

 我に返って階段を登り始める。

 

 

 

「気持ち悪……」

 

 

 

 

 カタツムリを避けるように手摺側を登る妙子の目線が二階の床と平行になったころ、奇妙な物が見えた。

 

 

 赤茶けたヒトガタの何かが手を振り回している。

 

 

 バン……バン……

 

 

 204号室の扉から上半身だけを突き出す形で、ヒトガタはバタフライでもするかのような格好で腹這いで腕を振り回していた。

 

 

 

 バン……バン……

 

 

 

 それが不規則に地面にぶつかったタイミングでこの物音は発生していたらしい。

 

 

 

 バン……バン……

 

 

 

 

「おかみ……?」

 

 

 そうつぶやいた瞬間しまったと思った。 

 

 

 アレが女将な訳がない!! 間抜けなことにありえない状況に飲まれて思わず口を突いた言葉だった。

 

 

 

 妙子の声に反応した化け物はゆっくりと首を曲げる。

 

 

 

 目の位置に空いた二つの暗い穴が妙子を見据えた。

 

 

 

 皺だらけの干からびた肌は得体の知れない粘液で濡れている。

 

 

 

 動きの遅い化け物を刺激しないように妙子はそっと後ずさった。

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 天井に張り付いていた巨大なヤマビルが妙子の首筋に落下した。

 

 

 

「きゃああああああああああああああ!!」

 

 

 

 突然得体の知れない感触に襲われ半狂乱になった妙子は濡れた階段で足を滑らせると真っ逆さまに暗闇の中に落ちていった。

 

 

 

 

 ごとん……

 

 

 

 鈍い音の後に彼女が動く気配は無い。

 

 

 

 ただパキパキという小さな物音と、何かを啜るような気味の悪い音だけが別館の暗がりの中に溶け出していた。

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