ケース3 旅館㉖
コンコン……
扉をノックする音が聞こえた。
「はい?」
想定外の出来事にかなめは間の抜けた声を出した。
「当館で板前をしております。三谷でございます。この度の停電でお客様には大変ご迷惑をおかけしております。只今そのお詫びに回っております」
かなめが扉を開くと駒付きのワゴンの隣に三谷が立っていた。
三谷はワゴンに乗った高級そうな和菓子の包をかなめに手渡して深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ございません。まだ復旧の目処がたっておりませんのでもうしばらくお待ち下さい」
「いえいえ! 早く直ったらいいですね!」
かなめが呑気な返事をしているといつの間にか卜部が隣に立っていた。
「おい。どこかに連絡はついたのか?」
卜部の鋭い視線が三谷を捕らえた。三谷はゴクリと唾を飲む。
「そ、それが、随分前に庭師の坂東さんが出ていったんですが、一向に戻らんのです……」
バツ悪そうに答える三谷には目もくれず卜部はワゴンに残った二つの包を指さした。
「俺たち以外にも客がいるのか?」
「水鏡御一行様以外にも、おひとりだけ三階の部屋にお泊りになられてます」
三谷はもう一度深々と頭を下げて水鏡達のいる隣の部屋へと向かった。卜部はそんな三谷の背中越しに最後の問いを投げかける。
「ここには別館か何かあるのか?」
空気が張り詰める。
顔は見えずとも三谷の後ろ姿から緊張と狼狽が伝わってきた。
「ええ。私共、従業員の寄宿舎があります」
三谷は振り向くこともせずに機械的な返事をした。
「そこには何がある……?」
嫌な静けさが廊下を満たす。
「何も……」
三谷は振り向いて一礼すると水鏡たちが泊まる麒麟の間の扉を叩いた。
卜部はそれ以上追求すること無くかなめとともに部屋に戻ると高級和菓子を封を切った。
「食っとけ。次はいつになるかわからん……」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
夏男は頭にヘッドライトを装着して熱心に机に向かって作業していた。
集中すると周りが見えなくなる上に、時々舌を出して口角を舐めるのがこの男の癖だった。
コンコン……
ノックの音がしたが、夏男は振り向かない。
眼の前に並べられた獲物を美しく磔にすることが今の彼には最優先事項だった。
コンコン……
甲虫の薄い羽を剥き出しにする作業は細心の注意が求められた。
それを邪魔する何者かが意識の外で音を立てている。と男の無意識が警告を発する。
コンコン……
「あああああああもぉおおおおおおお!!」
夏男はいきなり立ち上がるとドスドスと足音を立てながら扉に向かった。
「誰えぇえ!? 僕に一体なぁんの用なのっ!?」
「停電で大変ご不便をおかけしております。謝罪のしるしにお納めください」
三谷は淡々と和菓子を渡す。夏男は先程までの勢いが嘘のようにもじもじとそれを受け取ると、扉の隙間から中に引っ込み凄い勢いで扉を閉めた。
夏男は中断した標本作りに再度取り組もうとしたが胸の中がモヤモヤとしてそんな気になれなかった。
仕方なくイライラを落ち着かせるために、頭を掻き毟りながら部屋をぐるぐると歩き回っていると天井の隅に一匹のムカデを見つけた。
「かっこいい……」
夏男は椅子を持ち出してその上に立つと、ムカデを捕らえようと手を伸ばす。
夏男の口角をぺろりと舌が這った。
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