ケース3 旅館㉑

 

「百々くん!!」

 

 千代は思わず立ち上がった。

 

「千代ちゃん……! 遅くなってごめん。お母さんお話があります」

 

 松永百々は夏男には見向きもせずに千鶴の目を真っ直ぐに見据えて言った。 

 

 

「あら松永くん! 大きくなったわね!! せっかく来てくださって申し訳ないんだけど、今は夏男さんと大事なお話をしてるの」

 

 

 千鶴は微塵も笑顔を崩さずに松永の目を見つめて言う。

 

 

「それは結婚の話でしょうか? 残念ですが、千代さんはすでに僕と結婚の約束をしています」

 

 そう言って松永百々は千代の手をとった。

 

 千代は百々の横顔に目をやると、頬を紅くそめてサッとうつむいた。

 

 百々の真剣な眼差しと自身に満ちた声に千代は惚れ惚れしながらギュッと百々の手を握りかえす。

 

 

 ああ。百々くんの声。もう怖くない。

 

 

 そんな二人を見て千鶴はぽかんと口を開けたかと思うと大声で笑い出した。

 

 

「あっははは……はぁー……あっはははは」

 

 

 百々は怪訝そうな顔で千鶴を見据える。

 

 

 千鶴は涙を拭いながら言った。

 

 

「おかしなこと言って!! 結婚の約束? 何を言ってるのよまったく」

 

 

 千鶴は奥の引き出しへと向かった。

 

 

「僕たちは本気です。この旅館も今日限り出ていきます」

 

 

「百々くん!! それ本当!?」

 

 千代は目を輝かせて百々を見つめる。

 

 

「ああ。段取りは付いてる。これからはずっと一緒だ」

 

 

 千代は目に涙をいっぱいに溜めてコクリと小さく頷いた。

 

 

「無理なのよ。そんなことは」

 

 千鶴が戻ってきて言った。

 

 

「千代さんはもう大人です。自分で決める権利があります」

 

 松永は鋭い目で千鶴を睨みつけた。

 

 

「ふふふ。だから無理なのよ。いくら怖い顔をしても無意味なの」

 

 

 そう言って千鶴は一枚の紙を机に出した。それは千代と夏男の婚姻届だった。

 

 

「もうこの二人は夫婦なのよ? 今日はいつから一緒に暮らすかの相談」

 

 

「私こんなの書いてない!! こんなの無効よ!!」

 

 千代が机をバンと叩いて叫んだ。

 

 

 千鶴は千代にそっと近づくと、千代を抱きしめ背中をぽんぽんと叩いて耳打ちした。

 

 

「じゃあ……婚約者の百々くんに御務めをしてもらいましょうか……?」

 

 それを聞いた瞬間に千代の表情がこわばり血の気が引いていく。

 

 

「どう? そうする? 大好きな人にしてもらう?」

 

 

 千鶴は千代の肩に手を置いて首をかしげておどけるような素振りを見せた。しかしその眼は冷酷な色を浮かべている。

 

 

 千代はわなわなと震えながらしばらくの間うつむいていた。

 

 

 

「千代ちゃん……?」

 

 松永が千代を覗き込む。

 

 

「めん……な……さい」

 

 

「え?」

 

 

「ごめんなさい……松永さん……私行けない」

 

 

「そうよね!! 千代ちゃん!! 夏男さんと一緒になるんですものね! 松永さんごめんなさい。そういうことだからお引取り願えます?」

 

 

「待ってください!! こんなのおかしいでしょ!? 千代ちゃん!! 一体何言われたの!? 僕は大丈夫だから!! 話してよ!?」

 

 

 

「ごめんなさい……今日は帰って……」



「でも…」



「帰って!!」

 

 

 そう泣き叫んで、千代は松永百々を出口まで追い返した。

 

 

 千鶴は満足げにそれを見届けると夏男の方に振り返った。

 

 

 千代は千鶴が夏男の方を向いた隙に殴り書きのメモを松永百々に手渡して囁いた。

 

 

 

 

 

 

「わたしを信じて」

 

 千代はそれだけ言うと涙を溜めた瞳で松永の顔を見つめてそっと扉を閉めた。

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