ケース3 旅館⑳

 

 先程までの秋晴れが嘘のように忌沼の彼方から暗雲が押し寄せてくる。遠雷の響きに耳を傾けながら卜部は言う。

 

 

「行くぞ。雨が来る」

 

 

 魚を大事そうに抱えて卜部はもと来た道を歩き始めた。

 

 

 

「先生! 沼の主にお捧げするんじゃないんですか!?」

 

 かなめが慌てて尋ねた問いかけに卜部は立ち止まることなく答える。

 

 

「ああ。来る途中に祠があっただろ? そこに供える」

 

 

 祠? そんなものがあっただろうか?

 

 

 かなめは記憶を辿るが祠の存在にはたどり着かない。

 

 

 そんなことを考えていると雷様の唸り声が腹の奥に響く。

 

 

 

 雷様はどんどん近づいてきている。急いだほうがよさそうだ……

 

 

 一行が帰路を急いでいると突然卜部が立ち止まった。かなめが覗き込むと、そこには苔むした石積みの残骸が打ち捨てられていた。

 

 

 

 卜部は崩れた石積みを積み直していく。まるで本来の姿を知っていたかのように。

 

 

 

「痛っ」

 

 

 卜部が咄嗟に手を引いた。

 

 

 すると持っていた石の下から黒々とした一匹のムカデが這い出してきて、落ち葉の下に消えていった。

 

 

 

「噛まれたんですか!?」

 

 

 慌てるかなめを制して卜部は作業を続ける。

 

 

「問題ない。温泉にでも浸けていれば腫れもすぐ引く」

 

 

 

 壁が積み終わったがどうやら屋根にあたる部分は風化してなくなってしまったらしい。

 

 

 卜部は近くに生える手頃な山椿の若枝を集めて簡易の屋根をこしらえた。

 

 

 シダの葉の上に先程の魚を置き、出来たばかりの祠に供えると、卜部は二礼二拍手一礼して祠から後ずさった。

 

 

 

 

 それと同時に稲妻が空を走り、雷鳴が響く。

 

 

 ビクッとして一同は自然と頭を低くする。

 

 

 雷鳴を合図に、先程まで天空にとどめられていた大粒の雨が音を立てて降り注いできた。

 

 

 

 

「ぎゃああ!! もう済んだならさっさと帰りましょう!!」

 

 

 水鏡が叫んで駆け出す。翡翠はかなめの方を見て頷いてからそれに従う。

 

 

「先生!! わたし達も急ぎましょう!!」


 

 卜部はチラリと祠に視線を落としてからかなめの後に続いた。

 

 

 

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 そのころ忌沼旅館では千代が俯いたまま席についていた。

 

 向かいには見るからに気の利かなさそうな男が気色の悪い笑みを浮かべて千代を観察している。

 

 

「ほら。千代ちゃん! せっかく夏男さんがいらしたんだから、笑顔笑顔!! この娘ったら緊張してるの?」

 

 

 女将の千鶴がそう言うのを聞き、夏男はへへへっと頭を下げながらもガラス玉のような目で千代を観察し続けている。

 

 

 夏男の佇まいは、まるっきり小学生の男子が姿形だけ大人になったようなものだった。

 

 それでいて旺盛な性欲は丸出しで先程から無遠慮に、まるで値踏みするように、千代の曲線を凝視している。

 

 

 

 そのことに気付かないふりをしながらも、千代は寒気を催し、鳥肌が全身に広がった。

 

 

 

「助けて……百々ももくん……」

 

 

 心なかで千代がつぶやく。

 

 

 すると千代の願いが通じたのか、音を立てて扉が開き、千代の恋人、松永百々が息を切らして現れた。

 

 

 

 

 雷鳴が響き激しい雨が屋根や窓を打つ音が部屋に木霊した。

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