ケース3 旅館⑮

 卜部は岩風呂の岩に座して微動だにしない。その隣では真っ青になった水鏡が震えていた。

 

 山の夜は冷える。十一月ともなれば気温はゆうに一桁台だろう。

 

 卜部は身体を芯まで冷やすと今度は水鏡を連れて熱い湯に身体を浸す。

 

 これで六度目になる。

 

 

「腹痛先生……こんなこと、毎日してるんですか……?」

 

 水鏡は冷え切った身体を温泉で温めながら恨めしそうに卜部に問いかけた。


 

「ここの湯は気が強い。荒治療だが消耗した身体には使える」


 

 卜部は薄く開いた目で闇と虚空の境界線を見つめながら質問には答えずに言った。

 

 

 (絶対やってるよ……だから腹を壊すんじゃないかな……)

 

 

 水鏡は心のなかでつぶやいた。

 

 

 卜部はそんな水鏡の心を見通すかのように薄めで睨みつける。水鏡はおどおどした様子で卜部の顔を覗き込んだ。

 

 

 

 

「な、何でしょう……??」

 

 

 

 

 

「腹痛は霊障だ……」

 

 

 

 水鏡があはは……と愛想笑いをしていると突然卜部が立ち上がった。

 

 

 

「出るぞ……」

 

「へ……?」

 

 

 

「急げ……!!」

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーーーーー 

 

 

 

 かなめは気を紛らわすためにテレビを眺めていた。

 

 画面には地方特有の見たことのない情報番組が映し出され、紅葉の見頃を速報していた。

 

 しかしここがどこかも分からないかなめにとってはあまり有益な情報にはならなかった。

 

 

 テレビのチャンネルをカチカチと切り替えていると、最終的に普段は見ない歌番組に落ち着いた。

 

 

 流行りの男性アイドルグループを眺めながら、卜部がこれを見たらいったいどんな悪口を言うかと思うとなんだか可笑しくなってフフと笑った。

 

 

 

 

 ザザザ……

 

 

 

 一瞬テレビにノイズが走った。

 

 

 山奥だからだろうか?

 

 なんとなく嫌な感じがしてかなめはテレビの電源を切った。

 

 

 

 一瞬で部屋は静けさに満たされる。遠くの川のせせらぎや、エアコンのモーターの唸る音が嫌に大きく聞こえる。

 


 カーテンの隙間の暗闇や押し入れが妙に気になってしまう。



 天袋から得体の知れない醜い何者かがこちらを覗いているような気さえする。

 


 ふと目をやると床の間の掛け軸のあたりを何かが這っているのが見えた。

 

 

 

 近づいて見るとそれは無数の足が生えた深緑の節足動物だった。

 

 

「なにこれ……気持ち悪……」

 

 

 かなめはゾッとして後退りした。見ると机に手頃なパンフレットが散乱していた。

 

 

 かなめはそれを棒状に丸めて構えると、そっと深緑の虫に近づいた。

 

 

 虫は掛け軸の裏に入って行きそうな嫌な位置にいる。

 

 

 かなめは逃してなるかという奇妙な正義感に駆られて慌ててパンフレットを振りかぶった。

 

 

 

 

 

 

 

「やめておけ」

 

 

 気がつくと背後に立った卜部がかなめの手を掴んで虫を叩くのを静止していた。

 

 

「せ、先生!!」

 

 

「あれはミドリババヤスデだ。攻撃されると酷い臭いを出す」

 

 

「み、ミドリ??」

 

 

「ミドリババヤスデ」

 

 卜部はゆっくりと繰り返した。

 

 

「とんでもない名前ですね……」

 

 

「噛んだり刺したりはしない。放っておけ」

 

 

 

 かなめはコクリとうなづくと気になって尋ねた。

 

 

「虫、詳しいんですか……?」

 

 

「ガキの頃山で生活してた。ところで亀、何もなかったか?」

 

 

 卜部は目を細めて部屋を見回す。

 

 

「亀じゃないです。かなめです! 特には……どうかしたんですか?」

 

 

 

「そうか……それなら構わない。どうやらまだ本調子ではないらしい」

 

 

 

 卜部はそう言って窓際の机と椅子のセットに腰掛けるとタバコに火を点けた。

 

 かなめもなんとなく向かいの席に腰掛けて卜部がタバコを吸うのを眺めていた。

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