ケース3 旅館⑭

 

 忌沼温泉旅館には別館が存在する。別館と言っても客室はなく、現在は従業員の寄宿舎として旅館の裏手に静かに佇んでいる。

 

 別館に続く渡り廊下は鉄骨造りで、ところどころ構造上、鉄骨が露出している部分がある。

 

 赤茶色の防錆塗料が分厚く塗られた剥き出しの鉄骨は結露で濡れてじっとりとした光を放っていた。

 

 

 

 

 若女将の千代は祖父の幸男ゆきおに食べさせる流動食を乗せた盆を抱えて渡り廊下を歩いていた。

 

 コツンコツンと足音が鉄骨に反響する。

 

「まるで鶯張りうぐいすばり……」

 

 千代はこの音が嫌いだった。どこかで母がこの音に聞き耳を立てていて、いつ本館に行き、いつ別館に帰ったかを把握しているに違いないからだ。

 

 

 

 美しい本館からは全く想像できないようなじめじめと陰気な渡り廊下。


 

 今から祖父の部屋に行くというのが余計に千代の心を憂鬱なものにする。

 

 

 

 床も下品な緑色の防水塗料で分厚く塗りたくられており、やはり山からの蒸気と結露でじっとり濡れていた。


  

 濡れた廊下にはカタツムリが透明の糸を引きながら這いずっている。千代はそれを見て顔をしかめた。

 

 

 

 

 濡れたガラス戸を押し開け別館に入ると、先に仕事をあがった中居が二人、広間でくつろいでいるのが見えた。

 

 

 しかしそれには目もくれず、千代は薄暗い廊下を進んでいく。

 

 

 いつも通りの順路で祖父のいる部屋へと向かう。何も見ず、何も考えずにまっすぐに祖父の部屋へ。

 

 

 204号の札が付いた重たい鉄の扉を押し開けると下駄箱と襖が待ち構えている。

 

 

「おじいちゃん……千代です」

 

 当然返事は無い。なかば当てつけのように、あるいはある種の儀式のように口にするだけで、意味がないことはわかっていた。

 

 

 返事がないのを確認してから千代は襖の前に正座して両手で襖を開く。

 

 敷居を踏まないように跨ぐと盆を取り、すり足で祖父のそばに近づく。何遍も繰り返してきた千代の日常。

 

 

「おじいちゃん。ご飯よ」

 

 

 そう言って幸男の方を見ると寝たままの状態で祖父は両目をカッと見開いて千代のことを凝視している。

 

 

 糞便の臭いが充満する部屋で、吐き気を催しそうになりながらも、千代は食事の支度をする。

 


 本来ならばまず汚物を綺麗にしたかったが、先に食事を済ませなければ幸男はおとなしくならない。

 

 

 

「ああぁ……んぅ」

 

 

 幸男は目と唸り声で早く寄越せと催促した。

 

 

 

 それには取り合わずに千代は淡々と準備を済ませるとプラスチックのスプーンで流動食を口に運んでいく。

 

 

 

 湿度と菌糸でねばつくたたみ、鼻を突く悪臭、流動食を咀嚼する音……

 

 

 

 そのどれもが千代の心を蝕んで、まるでずぶりと腐り落ちていくような錯覚に陥らせる。

 

 

 叫びたくなる衝動を押し殺せるようになったのは、どこかのタイミングで千代の中にあった何かが死んだからだろう。

 

 

 老人用のおむつを交換し、汚物をビニール袋に入れる。感情は挟まない。

 

 




 

「あ……ムカデ」

 

 

 すべてのが完了し、やっと部屋を出ようとした矢先に、天井の端に季節外れの巨大なムカデがいることに気が付いた。

 

 

 千代は満足して眠る老人に目をやる。心の奥底では噛まれてしまえと毒づいたが、噛まれて大騒ぎになれば被害を被るのは自分だった。

 

 

 がっくりと肩を落としてムカデに向き直る。

 

 

 千代は掃除箱から箒を取り出してムカデを払おうとした。しかしムカデは箒が近づくのを察知して天井の隙間に逃げ込んでしまった。

 

 

「なんなのよ……!!」

 

 千代は小声でそう吐き捨てると照明を消して祖父の部屋を出ていった。

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