ケース2 プール㉕


 反町ミサキは床に横たわる男を見て震えた。奥歯ががちがちと音を立て膝が嗤う。先程まで邪悪な笑みを浮かべていた男が今は足元に転がっている。男の目は見開かれたまま不自然な方向を見つめている。口元にうっすらと笑みを浮かべながら、自らの汚物にまみれて男は小刻みに震えていた。

 

 汚物の臭いが鼻をついた。その瞬間、忘れていた嫌悪感が食道をせり上がって戻ってきた。

 

「んおぇ……」

 

 ミサキは顔を背けて壁際に走り嘔吐した。震えは止まらない。次は、自分の、番なのだ……

 

 

「アンタハドウスルンダ?」

 

 

 卜部の抑揚のない声が背後から聞こえた。もしかしたら普通に言われたのかも知れない。私の感覚がおかしくなってるんだ。それであんな風に聞こえたんだな。そういえば家を出る時にガスは止めただろうか?

 

 

「あんたはどうするんだ?」

 

 

 ミサキはハッとして現実のプールに戻ってきた。声のする方を見ると卜部とかなめが自分を見つめているのが見えた。

 

 

「私は……」

 

 

 ふと指先に違和感を感じて目をやると、腰に抱きついた小さな赤ん坊がミサキの指先を握っていた。

 

 

 それを見た瞬間に何処かに置き忘れてきたはずの感情がツンと鼻の奥に蘇った。

 

 また身体が震える。声にならない音が口からこぼれ、涙と鼻水がそれに連なる。

 

 反町ミサキは自身の指を掴む小さな手にそっと触れて泣き崩れた。

 

 

「ごべんね……ごべんね……自分のことばっがりで……本当にごべんなさい………」

 

 

 ミサキは卜部とかなめを見て言った。

 

 

「どうずればいいですか……?」

 

 

 

「さっき言ったとおりだ。俺が媒する。あんたは赤ん坊達の要求を受け入れて臍の緒を切る。それしかない」

 

 

 反町ミサキは小さく頷くと用意してきます。と事務室に駆けていった。

 

 

 するとかなめが静かに口を開いた。

 

「先生……」

 

「なんだ?」

 

「わたしもミサキさんを手伝います。わたしに出来ることはありませんか……?」

 

「・・・」

 

 卜部は押し黙ったまま何も言わなかった。

 

「先生!!」

 

 かなめはもう一度卜部を呼んだ。

 

 

「それは同情で言ってるのか? 反町ミサキが可哀想だからか? それならやめておけ。あの女にも然るべき原因がある。お前が被ってやる必要は何もない」

 

 

 

 

「じゃあ……先生はどうしてこんな仕事を……?」

 

 

 かなめは思い切って尋ねてみた。卜部の心の奥深く、まだ自分が触れることの許されていない真っ暗な闇の一端に触れる言葉。

 

 

「・・・俺の個人的な衝動ゆえ、だ……」

 

 

「なら、わたしも同じです! 個人的な衝動です! 同じ女として放っておけません!」

 

 

 重たい沈黙が立ち込める。卜部の鋭い眼光がかなめの目を捉える。怯みそうになるがかなめも真っ直ぐにその眼を見つめ返した。

 

 

 

 やがて卜部は大きなため息をついて言った。

 

 

「いいだろう……」

 

 

「反町ミサキが赤ん坊を引き付けている間にお前が臍の緒を切れ」

 

 

「はいっ!!」

 

 かなめはそれを聞くと顔を明るくして服を脱ぎ始めた。

 

 

「お、おいっ!? 何してる!?」

 

 慌てて卜部は顔を背けた。

 

 

「大丈夫です! こういうこともあろうかと中に水着を来てきました!!」

 

 

 かなめは群青色のシュシュを口に咥え、髪を束ねると慣れた手付きで髪をまとめた。卜部はそれを黙って見ていた。

 

 

 

「かなめちゃん……? どうしたの……?」

 

 水着に着替えて戻ってきた反町ミサキが驚いた様子で言った。状況が飲み込めないといったところだろうか。

 

 

「わたしも手伝います。わたしが臍の緒を切るので、ミサキさんは赤ちゃん達をお願いします」

 

 

 かなめが卜部を見ると、卜部は床に描かれた文様の中心に正座して四本の蝋燭に火を灯していた。

 

 

「今から俺が赤ん坊の霊をできる限り抑えるがあまり効果は期待するな。それよりも危険なのは水底に潜んでいる化け物の方だ……」

 

「ば、化け物ですか!?」

 

 かなめは思わず叫んだ。

 

 

「そうだ。それを抑えるのにほとんど全ての力を使うことになる。かなめ、自分の身は自分で守れ。いいな?」

 

 

 

 突然肌が粟立つのを感じた。目をやった真っ黒な水面からは生臭い臭いが立ち上っていた。

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