ケース2 プール⑯
ごめんなさい……ごめんなさい……自分のうわ言で目が覚めた。最悪の気分だ。
もう十年近く経つというのに……いったいいつまで私はこの呪縛に囚われなければならないのだろう。
だいたい仮に別の選択をしていたとしても、当時の自分がまともにそれと向き合えたとは到底思えない。
父はいつも優しかった。決まって夕飯時に家に帰ってくると、着替えを済ませて食卓に着く。すると私をそばに呼び寄せてはご機嫌で晩酌するのが父の日課だった。
私は父の仕事の話や同僚の話を聞いてその時を過ごした。母は眉間に皺を寄せて台所で父のつまみを作っていた。
消防士だった父はがっしりした恵まれた体格をしていた。水難救助の観点から父は私に水泳を習わせた。父さんは強いんだぞというのが彼の口癖だった。私はそれを信じていた。
母は神経質な人だった。カルチャーセンターでパッチワークの講師をしていたため、家には彼女の作品がきっちり完璧に展示されていた。
彼女は完璧な家事をこなすことが完璧な妻の務めだと信じていた。
そして私にもそれを強要しようとした。
私は家事やパッチワークや裁縫などにはまったく興味がなかった。私は男の子と外で遊ぶのが好きだった。
しかし母は泥だらけで男の子と遊ぶ私を見てはヒステリーを起こした。私が近所の男の子達と遊んで帰るたびに、イロケヅキヤガッテと叫び散らした。
色気づきやがって。母の言葉の意味を知るようになったのは中学校に上がってからだった。
父は母のヒステリーに耐えかねて、母の前で私をぶつようになった。すると母は満足そうに、ほれみたことか! と私に吐き捨てる。
母がヒステリーさえ起こさなければ父はいつもの優しくて強い父だった。
中学二年生のころに、私は先輩と付き合うことになった。
彼は私にたくさんの素敵な言葉をくれた。愛してる。一生一緒にいよう。お前が俺の全てだ。
感じたことのない幸福感で頭がチカチカした。世界中の悲しみが吹き飛んでピンク色の光に飲み込まれる感覚。
そうして私はその感覚の虜になった。その感覚が、その実感が、あのピンクの柔らかで鮮烈な光がなけば世界は途端に色を失ってしまう。
また灰色の薄汚れた世界になってしまう。
だから私は彼が求めることは何でもした。そうすれば彼は私に生きている実感を与えてくれる。
そうして私は彼に
私は彼と別れて、別の人と付き合った。付き合った。付き合った。付き合った……
そうして高一の夏、私は妊娠した。相手は二つ上の先輩だった。
蒸し暑い夜に、彼が両親を連れてうちに来た。
平謝りする彼の両親に父はへへっと笑って言った。
「まぁうちの方にも問題がありましたから、お互い様ということで」
父は強いんだぞ。父はツヨイんだぞ。チチハツヨインダゾ……
母に付き添われて病院に行った。その道中、母は私に何も一言も話さなかった。
こうして私は家の中にも、学校の中にも居場所が無くなった。
仕方なく次々と新しい彼を求めて彷徨った。ピンク色の光に包まれていなければ、もはや正気を失いそうだった。
毎晩、毎晩、毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩……
赤ん坊の泣き声が聞こえた。
嘘だ。そんなものは聞こえない。
しかし振り返るといつもそこには血に塗れた何かがいて、私はそれから目をそらし続けた。
スポーツ系の専門学校を出て、今の職場に落ち着き、大吾くんと出会った。
彼に会って、彼に愛されて、彼に食い物にされて、私の心を蝕み続ける泣き声は鳴りを潜めた。
それなのに、いつからかおかしなことになった。気持ちの悪いモノが見えるようになった。
今度は頭の中ではなく、自分の中から胎動が聞こえるようにった。
身体の中からあの泣き声が聞こえる。神経を逆撫でるあの声……
お願いだからもう消えて……祈るような想いで目を瞑る。
しかしそれをあざ笑うかのように、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえた。
今夜で全部おしまいにする……暗く淀んだ眼でミサキは榛原大吾に電話をかけた。
「もしもし大吾くん? そっちも赤ん坊の声が聞こえるんでしょ? 解決法が見つかったの。今夜プールに来て」
それだけ伝えるとミサキは一方的に電話を切って部屋を出た。
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