ケース2 プール⑧

「これを足首に付けとけ」卜部はかなめに薄汚れた輪っかのようなものを手渡した。それは木の皮で編まれたミサンガのようだった。

 

「なんですか? これ? 手じゃ駄目なんですか?」かなめはしげしげとそれを眺める。

 

「足首だ。正確には崑崙こんろんだが。ここの水は相当、陰に偏ってる。そいつは陰には無力だが、水の性質を昇華して緩和させる働きがある」

 

「先生は付けなくて大丈夫なんですか?」

 

「男はもともと陽の生き物だからな。女は陰の生き物だ。だからここの水の悪影響をもろに受ける」

 

「なるほど……」

 

「そいつに変化が現れたら要注意だ。急いで水から上がれ。もし切れたら……」卜部は険しい表情で言葉を区切った。

 

「もし切れたら……?」かなめも不安な表情で卜部の顔を覗き込んだ。

 

「命に関わる。俺が居ない時は絶対水の中に入るなよ?」いつになく真剣な眼差しで卜部はかなめの目を見据えた。かなめはそれに応えて黙って頷いた。

 

 二人はステンレスの梯子が掛けられた位置に移動すると、卜部が梯子を伝ってゆっくりと水中に身体を沈めた。卜部は表情一つ変えずにかなめに来るように合図する。

 

 かなめはそれを確認すると、梯子を掴んで後ろ向きに、ゆっくりとプールに降りていく。片足が水に入った時、咄嗟に足に目をやった。ぬるりとした感触がふくらはぎに触れた気がしたからだ。しかしそこに変わった様子はなく、細かく波立ったプールの水面に天井に張り巡らされた万国旗が映り込んでいるだけだった。

 

 全身が水に浸かると、纏わりつくような嫌な感じがする。水が重い。ラッシュを着ているせいだろうか?

 

 見渡すと反対側の一角では小さな子ども向けの水泳教室が開かれている。そこには反町ミサキの姿があった。ワイヤーとカラフルな浮きで区切られた隣のコースには若い男のインストラクターが大人の女性向けにフィットネスのクラスをしているようだった。

 

 和気あいあいとした雰囲気とは裏腹に、彼らの回りの水はここよりも一層淀んでいるように見えるのは気のせいだろうか……

 

 かなめがそんなことを考えていると卜部が隣にやって来た。

 

「あそこまで泳ぐぞ。泳ぎ切ったらすぐに陸に上がる。いいな?」やはり卜部もあちらが気になるようだった。 

 

「何か気付いたら後で教えろ。お前が先だ」

 

 かなめはコクリと頷くと泳ぎ始めた。

 

 ゴーグルを付けて息継ぎをしながらクロールをした。久々に泳ぐせいか、着慣れないラッシュのせいか、とにかく水が重たく感じる。うまく息継ぎが出来ず気持ちが焦ってくる。五十メートルあるプールの端が遥か遠くに思えた。

 

 中程まで来ただろうか? ふと水底の異変に気がついてかなめは驚愕した。先程まであったはずの底が無くなっている。どこまでも続く暗闇がプールの底に広がっていた。緊張が走る。

 

 うまく息継ぎが出来ない! どうしよう!? 溺れる!? 足が付かない!!

 

 パニックに陥って、半ば藻掻くように泳いでいると、前方から子ども達の声が聞こえて来た。

 

 よかった。もうすぐ端に着く。

 

 命の気配に安堵してそちらを見ると、そこにはブヨブヨとしたが何体も何体も何体も、まるで海藻のように直立して水中を漂っていた。

 

 かなめは恐怖で引きつり息継ぎに失敗すると、たちまち本当のパニックに陥るのだった。

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