ケース2 プール⑦
「先生!」かなめは慌ててプールサイドで待つ卜部の所に駆けていった。卜部はど派手なハイビスカス柄の競泳水着を履いて腕組みしながら仁王立ちしている。
「遅いぞ! かめ!」卜部は声の方向に振り向きざまに小言を言ってやろうと待ち構えていた。
「いったい着替えにどれだけ時間が……」そこまで話して卜部は言葉に詰まった。
そこには光沢のある黒を基調にした、競泳用の水着に身を包んだかなめの姿があった。艶っぽい黒に水色のラインが入った水着は、ぱっくりと大きく背中が開いていた。キュッとよく締まった小ぶりな臀部と、大きくない胸が、バランスよく水着の中に包まれている様を見て、卜部は無意識にかなめから目をそらす。
「着慣れてるな……水泳やってたのか?」卜部はかなめの方を見ずに言った。
「や、やってませんよ! たまたまスポーツ用品店で会った、反町さんに見立ててもらったんです!」かなめは卜部の予想外の反応に嬉しいやら恥ずかしいやらで顔を真赤にしながら、持ってきておいたラッシュを羽織った。これ以上この恥ずかしさには耐えられそうにない……
「それより大変です! 更衣室に怪異が出ました!」
かなめがラッシュを着て、いつもの調子を取り戻した卜部が舌打ちしたのがかなめの耳に入った。
「ど、どうかしましたか? 私なにかまずいことしました……?」
「いや。お前は関係ない。言っておいたと思うが、ここの更衣室で絶対に着替えるなよ?」
「はい。今日も言われた通り、水着は中に着てきました。でもいったいどうして?」
「じきに解る。それよりこのプール……」
卜部は目を細めてプールの角に出来た暗がりを見据える。かなめもそれに釣られて暗がりに目をやった。
そこには異様な光景が広がっていた。
ゆらゆらと揺れる水面の奥に、小さな手のようなものが動いている。まるで新生児かそれよりも……
「あれ……むぐぅ……」かなめが口にしようとした瞬間に卜部が左手でかなめの口を塞いだ。
「言葉にするな。今はまだ弱々しく水の中にいるが、実体を得れば水の上に上がってくるぞ」
かなめは前に卜部に言われたことを思い出す。
「怖い想像をするだけならセーフだ。頭の中、精神の中はまだこの世じゃない。だが言葉にしたり絵に書いたりして実体を与えると、それはこの世に産まれることになる……」
かなめは黙って頷いた。それを確認して卜部は口から手をどける。
卜部は軽く水面に触れて目を瞑った。その姿はまるで亡者に祈りを捧げているかのように見えた。
「この水面が境界線だ。ここから下は幽世に近い……」顔を上げた卜部が誰に言うともなく呟いた。
卜部はかなめに視線を送って言う。
「入るぞ……」
かなめはそれを聞いて、ゾクリとしたものが背中を上るのを感じた。
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