ケース2 プール③
かなめは思わず口を覆った。あまりの衝撃に悲鳴が漏れそうになったからだ。反町ミサキはシャツを戻すと卜部に深々と頭を下げた。
「お願いします! もうここしか頼れるところがないんです……神社もお寺も何もしてくれませんでした……」
「どこでうちのことを知った?」卜部は反町に鋭い視線を投げかけた。
「ネットで探してたら、掲示板サイトで指なしって人が教えてくれました。あと、テレビで有名な霊能者の水鏡先生にウチでは見れないから腹痛先生のところに行くようにって……」反町はおずおずと答えた。
それを聞いた卜部は苦々しい表情で、くしゃくしゃの髪を搔き上げて後頭部のところで手を止めた。いつもの考え事をする時の癖だ。かなめはそれを黙って見ていた。
「鈴木の奴め……」
「えっ?」
「なんでもない。こっちの話だ。いいだろう。依頼を引き受けてやる」
「本当ですか!?」反町ミサキの顔が明るくなった。
「良かったですね」かなめは笑顔で依頼人と顔を見合わせた。依頼人も泣きながら頷いている。
「喜ぶのは早い。条件がある。それをあんたが飲めるかどうかだ」
部屋の中に重たい空気が立ち込めた。さっきまでの笑顔が消えて反町は怯えたような上目遣いで卜部を見た。
「あんたに憑いてる奴は相当に重い。今すぐ簡単に祓えるような代物じゃない。当然、祓い料も安くない」
反町は黙って頷いた。
「その上で条件だ……」
卜部の提示した条件はこうだった。
一つ、事件があった当時、例のプールに在籍していた者すべての住所と連絡先を教える。特に辞めた者は必ず。
二つ、調査中、卜部とかなめの素性は関係者にも明かさないこと。
三つ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後の条件を見て反町は絶句した。困惑の表情で卜部を見る。
「こんなこと、私できません……」
「なら打つ手はない。仮に無理矢理に祓おうとすれば、あんたも祓おうとした人間も地獄を見るだろう。今の状態が可愛く思えるほどのな」
反町ミサキは顔面蒼白で固まっていた。
「なんで私がこんな目に……」
「さあな。ただひとつ言えることはすべての事象には必然性があるってことだ。多くの人間は身に降りかかる不幸を運の悪い出来事として、自分から切り離すがね」
秋雨前線の湿った空気が、余計に沈黙を重たいものにしていた。かなめは卜部の言葉を反芻しながら成り行きを見守っていた。
「あと、これは忠告だが、やるなら早いほうがいい。長引けばそいつはあんたにもっと悪影響を及ぼし始める」
「悪影響ってどういうものでしょう……?」反町ミサキは青ざめた表情で尋ねた。
「第一に二度と子を望めなくなる……そうなるまでもって数週間。それを過ぎれば祓うのがどんどん困難になる。仮に祓えても後遺症が残る可能性が高まっていく。ある時点を越えるとそいつが肉を持って顕現することになる……意味は分かるな?」
卜部は視線を反町の腹部から顔に戻しながら言った。
「産まれるってことですか……?」
卜部は黙ってコクリと頷いた。
かなめは背筋がゾクリとするのを感じた。存在しないはずの何者かを身に宿し、それが日に日に大きくなっていく恐怖を想像した。得体の知れない怪物が自分の中から血にまみれて出てくるところを想像する寸前のところで、反町ミサキのか細い声が聞こえた。かなめはその声で現実に戻ってきた。
「やります……その条件でお願いします……」
「いいだろう。契約書を作る」
卜部は部屋の隅に置かれた木製の古いデスクの引き出しから紙を取り出すとそこに手書きで契約内容を書き始めた。古びた万年筆で書く字は端正で美しかった。
「契約を破れば一切の厄をあんたに引き受けてもらう。助手の分の厄もだ」卜部はかなめを顎で指した。
反町ミサキは小さく震えながらも頷いた。
「ここに血判を押してもらう。おい! 針を!」
かなめはデスクに置かれた木箱から小さな針の付いた木の台を取り出して持っていった。
「まずはあんたからだ」卜部はそう言うと針付きの台を依頼人に手渡した。
「親指に刺して血判を押せ」
反町ミサキは少し躊躇ったが覚悟を決めて針を親指に突き刺した。ぷつという感覚と共に鋭い痛みが走ったが、思ったほどの痛みではなかった。親指の腹に出来た血の雫を押しつぶすように、反町は契約書に捺印した。
それを確認すると卜部が後に続いた。その後かなめも卜部に習って捺印した。
「いいか? この契約書の効力を甘く見るな。ただのオカルトじゃないからな。契約を破って厄を被れば死ぬだけじゃすまない目にあう」
「はい。絶対破りません。助けてください。お願いします……」
反町ミサキは去り際にもう一度深々とお辞儀をすると事務所から出ていった。彼女が去ってしばらくすると卜部が深い溜め息をつきながら言った。
「おい。かめ」
「かなめです」
「お前、水着持ってるか?」
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