ケース1 山下邦夫の話⑧
山下は使い古した黒い鞄の中にタオルで巻いた出刃包丁をそっと忍ばせた。妻を殺して何もかも終わりにしよう。それ以外のことは何も頭に思い浮かばなかった。ただ今から自分が何をすべきか、どう行動するべきかははっきりと分かった。
あの女は必ず来るだろう。金にうるさい女だ。そのうえこちらから離婚に応じるとなれば願ってもないはずだ。山下は電車を乗り継いで件の廃ビルの前に到着した。見ると一台のタクシーが停まっていた。山下はタクシーに近づいて運転手に声をかけた。
「誰か待ってるのかい?」
「はい。お連れ様と待ち合わせだとか言って女の方を乗せてきたんですが、すぐに話は済むだろうから待っていてくれって頼まれましてね」
「私の連れです。しばらくかかると思うから行ってくれて構わないですよ」
「そうは言われましてもね。待つように言われてますから」
「早くいけぇえ!!」山下はそう言うと運転手に掴みかかった。運転手は山下のあまりの剣幕に、慌てて車を発進させた。
山下はタクシーが走り去ったのを確認すると窓を見上げた。とにかくあの女はちゃんと来ているようだ。山下は鞄から出刃包丁を取り出すと、しっかりと後ろ手に柄を握りしめた。廃ビルに踏み込むと湿った空気が山下にまとわりついた。しかし不思議と悪い気はしない。まるで悪役の登場シーンを彩るスモークのようだ。廃ビルに立ち込める陰鬱な空気を纏って、山下は颯爽と待ち合わせの給湯室へと歩いた。
扉を開けるとベッドに妻が腰掛けていた。いつも着ていたピンク色のブラウスが月明かりに見えた。年甲斐もなく茶髪にゆるいパーマを当てて、まるで娘と同じような恰好をしている妻の後ろ姿がそこにはあった。
山下は小さなシンクの上にかけられた鏡に映る自分を見た。痩せこけた頬に、みすぼらしいスーツ姿の冴えない初老の男がこちらを見ている。その後ろには同じように冴えない男たちの行列が続き、それらが口々に山下の耳元で殺せと囁いていた。
山下は妻のほうにゆっくりと歩いていった。「お前来てたのか」山下が声をかけても女は振り向かない。「待たせて悪かったな」山下はそう言って後ろ手に隠していた出刃包丁を頭上に構えて妻の肩に手をかけた。「俺もすぐに行くから!!」
そう言って出刃包丁を振り下ろそうとした時、肩を掴んでいた手を捻り上げられた。痛みで抵抗出来ない上に、足を蹴られて地面に組み伏せられてしまった。気が付くと女は自分の背中に跨っていて、出刃包丁を持つ手は膝で踏み押さえられていた。
「誰だお前!! 依子じゃないな!?」山下は半狂乱で叫んだが身体の自由は効かないままだった。
「心霊解決センターの万亀山です」かなめは山下を取り押さえたまま静かにそう言った。
「あいつの助手か!! 離せ!! 俺はあの女を殺しに行くんだ!! 邪魔するな!!」
山下が叫ぶと部屋中から低い男の声が聞こえてきた。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
「え!? え!?」かなめは怖くなってあたりを見回した。見ると黒い影のような男達が部屋中に溢れて、殺せと、殺せと、呪詛の詞を繰り返していた。
山下はかなめの拘束が緩んだ隙にかなめを突き飛ばして包丁をまっすぐかなめに向けて一歩一歩かなめに
パーン! 突然部屋に手を叩く乾いた音がこだました。すると先程までいた黒い男たちは弾けるように消えて、山下の後ろに立つ人影一人だけになった。
「先生!」かなめが叫ぶとそこには卜部が立っていた。
「山下邦夫。俺との約束はどうした?」卜部は鋭い目つきで山下を睨みながら冷徹に言い放つ。
「う、うるさい!! 俺はあの女を殺しに行くんだ!! お前に邪魔される筋合いはない!!」
「確かにそれはお前の勝手だ。だが俺も仕事なんでな。山下邦夫から依頼を受けてる。妻と娘を失いたくないとな」
「黙れ!! 俺が山下邦夫だ!!」山下は叫びながら包丁を両手でしっかり握って、卜部に突っ込んでいった。
「先生!」叫ぶかなめを左手で制して、卜部は一言だけつぶやいた。
「指切った」
卜部のつぶやいた声は、山下の絶叫にかき消されることなく響いた。卜部の口から出たそれは、言葉ではなく
山下はそれを聞くとぎゃっと小さく叫んでうずくまった。床には出刃包丁がごとりと音を立てて転がった。山下は震えながら自分の両手を見つめた。そこには赤黒く染まった十本の指が見えた。
卜部は山下の方に歩いていくと、山下の背後にこびり付いていた黒い人影を掴んで山下から引き剥がした。すると断末魔のような叫び声を上げて山下はその場に倒れた。
「死んじゃったんですか……?」かなめがおそるおそる尋ねる。
「いや。気絶してるだけだ」卜部は黒い人影を持ったまま手を強く打ち叩いた。すると黒い影は他の影たちと同じように弾けて消えてしまった。
「これで終わったんですか?」
「まだだ。元凶が残ってる」
卜部はそういうとシンクの上にかかった鏡の前に立った。そして小さなナイフを取り出して自分の親指を切りつけるとその血を鏡に付けた。今度はポケットから古びたコンパクトを取り出すとそれを開いて同じように鏡に自分の血を付けた。
「俺の血で繋がりを創った。お前はもう逃げられない」卜部はそう言うとシンクの鏡とコンパクトを合わせ鏡にして何かをブツブツと唱え始めた。かなめは何を言っているのかと耳をそばだてた。するとそれはどうやら女の人の名前のようだった。三島恭子出てこい。三島恭子出てこい。そう繰り返している。
「ぎゃああああああああああああ」
突然鏡がひび割れたかと思うと絶叫が部屋に響いた。卜部はそれを確認するとパタンとコンパクトを閉じてしまった。
「こいつが元凶の三島恭子の怨霊だ」コンパクトを見せて卜部は言った。
「かつてここで不倫していた男の不倫相手の女がこの三島恭子だ。三島恭子は初めは聞き分けのいい女だったらしい。しかしどんどん不倫相手の男にのめり込んでいった。ある時から妻と別れて自分と結婚するようにせがむようになったらしい。男はそんな三島が煩わしくなったんだろう。不倫をやめたうえに、三島を会社から追い出したそうだ。それでも三島は諦めなかった。踏切に立っては男の帰りを待っていたそうだ」
「やがて三島は男の妻と家族を怨むようになった。自分が男に選ばれないのは嫁と子供がいるせいだと。三島はいわゆるストーカーになった。男はそんな三島を疎ましく思い、ついにある決断をした」
かなめはごくりと唾を飲み込んだ。恐ろしい結末が見えたからだ。
「男は三島に話があるとうそぶいて給湯室に呼び出した。三島に酒を飲ませ泥酔させると黒いコートに着替えさせ、例の踏切に運んで三島を放置した……」
「問題の女はこの世から消えて、男は平和を取り戻したかに思えた。しかしその夜から男は悪夢にうなされるようになる。カラフルなマニキュアをした三島の指が部屋中を這い回る夢だ。脳みその溢れた三島が、男に妻と子供を殺すように囁き続けた。何日も何日も何日も。やがて男は精神を病み、家族との関係は壊れていった。妻から離婚を切り出された男は逆上して妻と子を殺すと、この踏切で飛び込み自殺し、自らの命を絶った」
「それからだ。ここで不可解な事故が続き、会社は倒産。おまけになぜか売春宿になって、家族間、夫婦間に問題を抱えた男が、たくさん訪れるようになったのは」
「三島恭子がそうなるように仕組んだってことですか……?」
「三島だけじゃない。もっと上の霊的な存在が、三島とここで起きた事件を媒体にして同じ波長を持つ人間を引き寄せてるんだ」
卜部は忌々しそうに部屋の隅を見て吐き捨てた。部屋には沈黙が流れた。
「行くぞ。かめ」
「かめじゃないです。かなめです」
二人はそう言うと山下を抱えて部屋を出た。タクシーはことのほかすぐにやってきた。運転手はあの時の運転手だ。
「本当にお二人が言うとおりになりましたねぇー! いやぁー!! びっくりですわ!!」
「いいから出せ」
「まさか本当に男が来て掴みかかってくるとは思いませんでしたよ! 霊能者は未来も見えるんですか? 見えるんなら次のレースの順位とか教えてもらえたりしませんかねぇ?」
男は相変わらずひとりで調子良く話していた。その声を聞くとかなめは現実の世界に帰ってきたような気がしてなんとなくお腹が空いてくるのだった。
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