ケース1 山下邦夫の話⑦

 事務所からの帰り道、山下は駅に向かって一人歩いていた。言いようのない苛立ちが山下の胸に渦巻いていた。だいたい俺は家族のためにたった独りで慣れない地で働いているんだぞ! 友人はおろか知人だってほとんどいない。稼ぎは娘の学費とか言ってほとんど持っていかれて、わずかな小遣いは付き合いの飲み会に消えていく。いったい何のために俺はこんな惨めな想いをしなきゃならないんだ!

 

 そんなことを考えていると商店街のガラス窓に映る自分の姿が目に入った。頬が痩けてひどくみすぼらしい。灰色のスーツは撚れて皺が入り、自信なさげに背中を丸める男の鞄はやけに重たそうに見えた。

 

「ふふ……まるで屍みたいだな」山下は自嘲気味に独りごちた。ガラスを呆然と眺めていると、ふとあることに気がついた。自分と同じようにガラスに映る己の姿を見つめる男が背後に立っているのだ。その男も薄汚れたスーツを着て、重たそうに鞄を持ち、背中を丸めて立っている。奇妙なことに男の顔には暗く影がかかっていて、表情や顔立ちが分からなかった。

 

 山下はその男から目が離せなかった。窓に映る男はゆっくり山下に近づいてきた。ついにぴったり重なるほどに近づくと山下の耳元で低い声がささやいた。

 

「殺せ」

 

 山下が驚いて振り向くとそこには誰もおらず、騒がしい雑踏が行き交うだけだった。山下がもう一度窓に目をやると、窓の奥から女の店員が不審そうにこちらを見ているのが見えた。山下は店員に会釈すると、慌ててその場を立ち去った。

 

 今日は仕事を早退しよう。精神が参ってしまっているんだ。コンビニで酒とつまみを買って家でゆっくり休もう。山下はさっそく会社に電話を入れた。上司のあからさまに嫌そうな声が受話器の向こうから聞こえてくる。

 

「今朝から体調が優れず……はい。そうです……いや、ですから早めに帰って……はい。申し訳ありせん……そんな……はい。すみません。失礼いたします……」

 

 山下は憂鬱な気持ちでコンビニへと向かった。あんなにひどく罵倒されるならやっぱり定時まで出勤していればよかった。そんなことを考えながらも、もう後に引けない山下は、コンビニで缶ビールとスルメと唐揚げを買って家路についた。

 

 山下はアパートに着くとテレビを点けて、缶ビールを氷水に沈めた。マヨネーズと柚子七味を小皿で混ぜると、スルメをコンロで炙り、唐揚げはトースターで温め直した。部屋にスルメの香ばしい臭いが充満すると、少し気持ちが明るくなって腹が減ってきた。山下は一本目の冷えたビールを飲み干し、ぷはぁーと大きく息を吐いた。スルメに柚子七味で真っ赤になったマヨネーズを付けて頬張ると、旨味と辛味が口いっぱいに広がり、後味に柚子の風味が心地よく残った。山下はその日あった嫌な出来事を消し去るようにスルメと唐揚げをガツガツと頬張り、ビールで胃袋に流し込んでいった。

 

「上司もあの霊媒師の卜部も俺を舐めやがって! それもこれも全部あの女のせいだ! あの女がすべての元凶だ! 俺が一体何をしたっていうんだ!」酒のせいで気が大きくなった山下は呪いの言葉を吐き出しながら酒を煽った。

 

 気がつくとあたりは暗くなっていて、テレビは砂嵐を映していた。どうやら床に倒れ込んでそのまま眠ってしまったようだ。テレビを消して便所に行こうと立ち上がると嫌な汗が出てきた。部屋の中に、昼間窓に映ったあの男の気配がした。満員電車でするような汗の湿った臭いがする。自分の体臭とは違う他人の臭いが鼻を突く。

 

 山下は意を決して振り向いた。壁一面に芋虫のような指が這い回っていた。「ひぃぃぃ……」思わず山下は悲鳴をあげた。気が付くとテレビの暗い画面の中に頭の欠けた女の姿があった。女は残った片方の目をぐるりと回して山下を見つけると、口を大きく開いて嗤った。その口からは声のかわりに血が溢れて、こぽこぽと音を立てた。

 

 山下が思わず後ずさると背中に誰かがぶつかった。山下はあの男が後ろに立っていると瞬時に理解した。男は山下の耳元で殺せと低い声で囁きつづけた。

 

 山下は焦点の合わない目で一点を見つめながら布団にくるまって座っていた。山下は唐突に立ち上がると鞄から携帯を取り出して電話をかけた。

 

 何度かの呼び出し音のあと留守電の案内が流れた。山下は電話に出ない相手に対してやっぱりなと諦め混じりの独り笑いをするとメッセージを残した。

 

「俺だ。話があるんだ。離婚に応じるから今から言う場所に来てくれ……」

 

 

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