ケース1 山下邦夫の話⑥

 卜部は翌朝すぐに山下邦夫を事務所に呼びつけた。初め、電話越しの山下は「仕事がある」とか「急に言われても困る」とか言っていたが、卜部のただならぬ気配に押されて最後には「すぐに向かいます」と弱々しくつぶやいて卜部に従った。それから二時間ほど経つと山下は事務所にやってきた。山下の顔色は以前にも増して悪いように思えた。

 

「上着と荷物をそいつにわたせ」卜部はかなめを顎で指して言った。山下は不思議そうにかなめに上着と荷物を差し出した。かなめは丁寧に荷物と上着を受け取り、壁に備え付けられた上着掛けにかけた。

 

「座れ」卜部はソファを指して言い放った。

 

「あの、何かあったんでしょうか? それになんで荷物と上着を……?」山下はソファには座らずにおずおずと尋ねた。 

 

「いいから座れ。荷物と上着は清めのためだ」卜部の有無を言わさぬ態度に気圧されて山下はソファに腰をおろした。

 

「あんたに話がある。あんたと家族の命に関わる話だ。その前に確認することがある」卜部はそう言って立ち上がると山下の手を乱暴に掴んで掌を見つめた。

 

「あんた、本当に山下邦夫か?」卜部の鋭い眼光が山下の目に突き刺さる。

 

「な、なに言ってるんですか……そうに決まってるじゃないですか!」

 

「誓ってそうだと言えるか?」

 

「はい。誓って私は山下邦夫です……」山下は卜部の目を真っ直ぐ見据えて頷いた。

 

「いいだろう。まずは清めだ」卜部はそう言って酒瓶を取ると、平たい盃に注いで盃を頭上に持ち上げ、ゆっくりと礼をした。すると盃になみなみと入った御神酒に指を浸して山下に振りかけた。その所作はとても美しく手慣れていた。まるでこのような神事が何代にもわたって繰り返されてきたかのように感じさせられた。 

 

「小指を出せ」

 

 卜部はそういうと山下の小指に自分の小指を絡ませて指切りげんまんを歌い始めた。卜部が歌う指切りの童歌は、かなめの知っているのとは違う奇妙な歌だった。

 

「指切りげんまんこの指とまれ、早くしないと切っちゃうぞ。嘘ついたら針千本飲まさん。代わりに指切った」

 

 山下が突然の指切りと、奇妙な歌に面食らっている間に、かなめは山下の荷物から携帯を取り出した。そして静かに携帯の電話帳を開き、妻の番号を探し始めた。心臓がバクバクと音を立てる。いつ振り向くかと冷や冷やしながら、かなめは番号を探す。こんなことを命令した卜部を恨みながら。

 

「いいか。山下は必ずカミさんに会おうとする。そうなる前に山下のカミさんにこっちから連絡をとって、二人が会うことを阻止する。お前は俺が奴の注意を引いてる間に携帯を奪ってカミさんの番号をメモしろ。そのあとは……」

 

 卜部はかなめにもう一つの司令を出した。卜部の予想通りかなめは猛反対した。

 

「い、嫌ですよそんなの! だいたい勝手にプライバシーを盗んだら駄目です! それに奥さんの番号なんて山下さんに直接聞けばいいじゃないですか!?」

 

「さっき何でもするって言ってただろうが!」

 

「そんなこと言ってません!!」

 

「俺たちがカミさんに連絡を取ってることを知れば、山下は出方を変えて俺たちを出し抜こうとする。奴にが重要なんだ」

 

 卜部がいつになく真剣な表情をするのでかなめは思わず後ずさった。

 

「もし二人が会っちゃったらどうなるんですか……? だいたいどうして山下さんは奥さんに会おうとするんですか?」かなめは気乗りしないのでなんとかこの案を回避できないかと、ダメもとで聞いてみた。結果が変わらないことは分かっていたけれど。

 

「カミさんを殺すためだ。二人が会えば最悪の結果になる」

 

 こうしてかなめは山下の背後で携帯を漁る羽目になった。緊張と焦燥感で胃袋が口から出そうになりながら、かなめは妻とタイトルが付いた番号をメモした。そして卜部のもう一つの司令を実行する。かなめが上着に携帯を戻し、頭上に両手で円を作って完了の合図を送ると、卜部は山下に本題を切り出した。

 

「今日から一週間、嫁さんと娘に会うな。いいな? 絶対に会うんじゃないぞ? 電話や連絡も禁止だ」

 

「向こうから連絡が来たらどうするんですか?」

 

「無視すればいい。死人がでるよりマシだ」

 

 山下はうつむいて黙った。かなめから山下の表情は見えなかった。なのでかなめには山下が一体何を思い、考えているのか想像もできなかった。ただ山下の小さな背中からただならぬ陰気な気配が漂っているのはすぐにわかった。

 

「約束したからな? 俺と山下邦夫本人の約束だ。いいな?」

 

 山下は渋々頷いた。

 

「一週間だけですよ……」

 

「ああ。俺はその間に夢の元凶に片を付ける。一週間後にはあんたは悪夢から開放されてる。それでこの依頼はしまいだ。急に呼びつけて悪かったな」

 

 卜部がそう言うと山下は頭を下げて出口へと向かった。かなめから上着と荷物を受け取ると、山下はすぐに携帯を確認した。かなめは内心どきどきしていたが、山下は特に変わった様子もなく携帯を上着のポケットにしまった。

 

 山下が帰った後かなめは卜部に言った。

 

「先生! あんなお清めができるんですね! 怪異が憑いてるんだからわたしにもやってくださいよ!」

 

 卜部はかなめをちらりと見て言った。

 

「あんなのは上着をとったのを誤魔化すための出鱈目だ。番号を寄越せ。山下のカミさんに連絡する」

 

 かなめは信じられないといった表情で卜部を見つめた。卜部はそんなことはお構い無しで山下の妻に電話をかけていた。

 

「敵を騙すには味方から……か」かなめは諦めたようにぼそりとつぶやくのだった。

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