ケース1 山下邦夫の話⑤

 どれぐらい時間が経っただろうか。かなめはひたすら卜部を待っていた。鏡の中はますますおぞましい景色になっていった。壁紙から血の雫が溢れ、その雫を求めて指の芋虫が這い回り、顔の欠けた女が、かなめの顔を覗き込みながら、周りをうろついていた。

 

 鏡の中の出来事で現実の部屋に変化は無い。それがかなめの心の支えだった。しかしとうとう、実際にかなめの目の前を強烈な血の臭いが通り過ぎたり、ペタペタと湿った足音がすぐそばから聞こえてきた。

 

 何者かが明確な悪意を持ってわたしの周りをうろついている。そう思うとかなめは生きた心地がしなかった。鳥肌が収まらず背中には冷や汗が流れた。

 

 ドンドン!

 

 突然玄関のドアが音を立てた。

 

「先生!」かなめは立ち上がって玄関に向かった。

 

 ガチャガチャガチャ!

 

 ドアを開けようとドアノブを激しく回す音がした。

 

「今開けるので待ってください!」かなめはドアノブに手をかけた。ところがふと何か違和感を覚えて立ち止まった。

 

「先生……?」かなめは恐る恐るドアのに向こうに声をかけた。静かにチェーンロックをかけながら。

 

 急に静かになった。何の反応も返ってこない。かなめはドアに付いたのぞき穴から外を確認しようとドアに近付こうとした。

 

 カチャ。

 

 軽い音がして鍵が開いた。

 

 すると勢いよく扉が開き、チェーンロックがピンと張り詰めてガンッと音がした。かなめは息を殺しドアの隙間を見つめていた。いつのまにか、右手でスウェットの膝辺りをきつく握り、左手を固く握りしめて口に押し当てていた。

 

「俺だ。ロックを外せ」

 

 ドアの隙間から卜部が顔をのぞかせた。かなめはふぅーと長い息を吐いてチェーンロックを外した。

 

「このバカ」ドアを開けるなり卜部の手刀がかなめの頭を打った。

 

「痛いっ! 何するんですか!?」かなめは頭を押さえながら卜部に言った。痛みと怖さと安堵で目に涙が溜まってきた。

 

「俺を待つ時は絶対に自分から扉を開けるな。言ってあっただろ!」

 

 

 そうだった。かなめは以前した卜部との会話を思い出した。

 

 

「おい! かめ! お前の家の合鍵を寄越せ」

 

「い、嫌ですよ!! なんで先生に合鍵を渡すんですか!! こ、恋人でもないんですし……」

 

「何訳の分からんことを言ってるんだ。この仕事をしてたら、いつお前の家に怪異が現れるか分からんだろ」

 

「……」かなめは動揺した自分が恥ずかしくて黙っていた。

 

「いいか。その時は絶対に自分からドアを開けるなよ。霊を招き入れる承認になる。俺がドアを開けるまで絶対に自分からドアを開けるな」

 

 

 かなめがそんな会話を思い出していると卜部がつかつかと部屋に入っていった。

 

 かなめは慌てて卜部を追いかけた。

 

 卜部は部屋に着くなり姿見を見つめて立ち止まった。

 

 かなめはハッとして脱いだ下着と服をソッと洗濯かごに押し込んだ。

 

「これだな?」卜部が姿見を覗き込みながらかなめに尋ねる。

 

「はい。そうです。山下さんが言っていた指の芋虫と顔の欠けた女が鏡の世界にいました」

 

「それで?」

 

「どんどん鏡の中の状況が悪くなって、鏡の世界だけじゃなく、現実の世界から血の臭いがして足音が聞こえてきました」

 

 卜部はかなめの話を聞くと、部屋の中を歩き回り始めた。壁に触れたりベッドの下を覗き込んだりした。ひとしきり部屋を見て回ると、玄関に向かいドアを開けて外の通路を確認した。

 

 かなめが後ろから卜部を見ていると、卜部はしゃがみ込んで地面をじっと見ている。

 

「お前、廃ビルには何履いて行った?」卜部がかなめに尋ねる。

 

「ヒールですけど」かなめがおずおずと答えると卜部が地面を指して言った。

 

「じゃあこれは誰の足跡だ?」

 

 そこにはスニーカーの足跡があった。足跡の周りには少し泥が落ちていた。かなめは背筋が寒くなるのを感じた。

 

 かなめは着替えをカバンに詰めて、卜部と一緒に事務所に移動した。この事件が解決するまでは一人であの家には帰れそうになかった。事務所に着くと卜部はコーヒーを淹れながらかなめに言った。

 

「すまなかったな」

 

「何がですか? わたしの方こそ夜中に来てもらってしまって申し訳ないです」

 

「いや。ここまで急速に事態が進行すると思わなかった。だが。お前を一人にさせてすまなかった」

 

 予想はついていた。かなめは卜部の言葉を反芻しながら考えた。先生はこうなる可能性に行き着いていたんだ。つまりすでにこの怪異の核心に触れているということだ。

 

「先生はもう全部解ってるんですか……?」かなめは卜部に尋ねてみる。答えははぐらかされると知りながらも。

 

「さあな。だが少し急がないとまずいことになる。手伝ってくれ」

 

「はい!」やはりはぐらかされたが、かなめは意外な言葉に驚いて勢いよく答えた。

 

 何かの準備をする卜部の後ろ姿を見ながら、かなめは手の中のマグカップからコーヒーをすすった。

 卜部の淹れるコーヒーはかなめにとってどこで飲むコーヒーよりも苦く、そして優しい味がした。

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