ケース1 山下邦夫の話④

 卜部はかなめをマンションに送り届けたあと事務所に帰っていった。

 

 かなめは部屋につくと、まず全ての部屋の明かりを点ける。それがかなめの儀式だった。部屋の中に闇が詰まっているのが怖いのだ。その闇を追い払うようにかなめは全ての部屋の明かりを点けていった。

 

 明かりを点け終わると、かなめはスーツをハンガーにかけてソファに倒れ込んだ。今日一日で色々なことがあった。かなめは一瞬あの踏切のことを思い出しそうになったが顔をぶんぶんと振って恐ろしい記憶を振り払った。むくりと起き上がってバスルームへと向かう。群青色のシュシュを外し髪をおろし、スカートとシャツと下着を洗濯かごに放り込んだ。シュシュだけは洗面所のシュシュ置き場にそっと置いた。

 


「現場から帰ったらすぐに風呂に入れ」


 以前卜部に言われた言葉だった。

 

「なんでですか?」

 

「清めに決まってるだろ」


 卜部は呆れたように言うのだった。

 

「お風呂なんかで清められるんですか?」かなめは訝しげに尋ねた。

 

「現場のホコリや塵を身体に付けて帰るとそいつがえにしになって奴らに居場所がバレるんだよ」


 かなめはなるほどと頷いた。

 

「ただし霊に憑かれていたら風呂程度では当然払えない……」

 

 そんな会話を思い出しながらかなめは入念にシャンプーをした。しっかり塵を落とさないと。


 

 かなめはシャンプーをするのが怖かった。後ろに何者かが立っていて自分を見下ろしているように感じるから。それに昔見た映画でシャンプーする手に何者かの手が触れるシーンがあった。そんな不吉な映像が脳裏に焼き付いていてかなめの不安を引き立てた。

 



 不安とは裏腹に、かなめは何事もなくバスルームを出た。洗面所のシュシュ置き場からシュシュを取ろうと手を伸ばした時、かなめは違和感を感じて鳥肌が立った。

 


 シュシュ置き場からシュシュが落ちている。

 


 窓は開いていない。当然風も無い。いつもこのシュシュだけは大切にしまうようにしている。そのシュシュが流し台の上に落ちている。急いでシュシュを取って手首に付けた。バスタオルを巻いて着替えを取りに部屋に向かうが、何かがおかしい。部屋の隅に落ちた影が妙に暗い気がした。リモコンの位置はあんな場所だっただろうか?

 

 かなめはテレビやラジオを付けたい衝動に駆られた。なんとか恐怖を紛らわせたかったし、孤独を誤魔化したかった。

 




「いいか。何かおかしいとおもったら絶対にテレビやラジオを点けるんじゃないぞ」

 

「なんでですか?」

 

「電波は霊が共鳴するのに都合のいい媒体だ。人工の電波や電磁波は無機質で死んでる」卜部はそう言うと一息ついてこう続けた。

 

「死は死と引き合うんだよ」

 



 卜部の言葉が頭によぎり、かなめはテレビを点けたい衝動をぐっと堪えた。髪を乾かして早く寝てしまおう。朝になれば先生に会える。

 


 かなめはそう思うと椅子に座ってドライヤーで髪を乾かし始めた。恐怖を紛らわせるために雑誌を開いてみたが全く内容が頭に入ってこなかった。髪を乾かしながら、壁に立てかけた姿見をちらりと確認する。あと数分で髪は乾きそうだ。ページをめくり文字を目で追うがやはり内容が入ってこない。


 もう一度姿見に目をやった時、かなめは異変を察知した。

 


 姿見に映る壁に、なにやら大きな虫が付いている。ぎょっとして壁を見たがそこには何もいなかった。

 

 姿見に目をやって、注意深く観察する。壁を這うそれは虫ではなく一本の指だった。

 

 もう一度現実の壁に目をやるがやはりそこには何もいなかった。

 

 姿見を見てかなめは「ひぃ」と小さな悲鳴を上げた。姿見は壁一面に這いまわる、カラフルな爪をしたたくさんの指を映し出していた。

 

 かなめは依頼人の山下邦夫の言葉を思い出す。

 

「部屋の中を千切れた指が芋虫のように這い回っているんです」

 

「あの指は、娘の指です。カラフルなマニキュアが塗ってありますから……」

 

 

 

 恐怖が心の隅々まで染み渡って心臓が早鐘のようにドッ、ドッと音を立てた。今すぐにこの部屋から逃げ出したかった。しかしかなめは逃げようとする足を無理矢理止めて、パンと自分の顔を叩くと鏡に近づいた。

 

「わたしは先生の助手なんだから。何か少しでもヒントを見つけないと」

 

 そう独りごちて姿見を覗き込むと、鏡の中からこちらを覗き込むように、突然血まみれの女が鏡面に現れた。

 

 その女は頭部が半分欠けており断面からは脳が見えていた。残った片方の目がぐるりと回り、かなめの目と目が遭った。すると女とかなめはまるで共鳴するかのように同時に大声で悲鳴を上げた。

 

 かなめは携帯を取り出して急いで卜部に電話を掛けた。二回呼び出し音がなってすぐに卜部が「どうかしたのか」と電話に出た。

 

「先生! 助けてください! わたしの部屋に霊が!」

 

「す……ぐに……ガガ……ザザザザ……く。ピィー……に……ギギギ……ろ!」

 

「なんですか? 電波が悪くて聞こえません!」かなめは部屋を移動して電波を探しながら叫んだ。

 

「そ……ザザ……から……ガガッ……は……ジジジジ……れ……ピーーー……」


 卜部の声が途切れ途切れに聞こえるが雑音で意味が判然としない。

 

「先生?」


 電話が静かになったのでかなめは画面を確認する。携帯は通話中の表示になっていた。

 


「ガガッ……ザザザザザ……ピィーーーーー……」




「死ね!!」



突然ものすごい音量で携帯がノイズを発し、女の叫び声が耳を刺した。

 

 かなめはとっさに携帯を放り投げた。カーペットの上に落ちた携帯からは甲高い女の笑い声が響いていた。

 

 かなめはシュシュを握りしめて目を閉じ、卜部の言葉を思い出す。

 

「もし何かあったら、俺が行くまでその場を動くな」

 

 かなめは怪異の跋扈ばっこする部屋の中、鏡を睨みつけて卜部を待った。

 

「お前なんて怖くないぞ」


 まるで自分に言い聞かせるようにかなめは何度も呟いた。

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