ケース1 山下邦夫の話③

 タクシーは思いのほか早くやってきた。運転手は黒々した髪にべっとりと整髪料をつけた小太りの男だった。卜部たちが後部座席に座ったのを確認すると、満面の笑みで「どちらまで?」と振り返ってきた。


「この辺に美味い蕎麦屋はないか?」卜部が少し身を乗り出して尋ねる。


「蕎麦ですか? 昼間ならいい店が何軒かあるんですがねぇ。この時間だったら、うん、あそこが良いな! って店なんですがね、爺婆じじばばが二人で切り盛りしてる昔っからある蕎麦屋ですよ! 夜でもあそこなら美味い蕎麦が食えますよ!」


運転手はひとりでうなずきながら笑顔で話している。こちらの応答は待たずに車はすでにに向かって走り出していた。

 

 幸いなことに踏切とは逆方向に車は走っていく。廃ビルは後方の闇の中に消えていく。しかしそれらは目に見えなくなっただけで、あの踏切も廃ビルも今もあの場所に確かに存在するのだ。


 ただただ自分が認識していないだけで、この世界には恐ろしいことや邪悪なものがいたるところに存在しているのかもしれない。自分の視野のほんのわずかに外側で、目を覆いたくなるような残虐な光景が繰り広げられていたとしても、我々はそれを見知ることはできないのだから。

 

 かなめがそんなことをぼんやりと考えていると、運転手の好機の目とルームミラー越しに目があった。


「お二人はあんな廃ビルにいったい何の御用だったんです?」運転手は好奇心を抑えられないと言った様子で眼を輝かせている。その輝きの中には確かな下心と助平心が見て取れる。


 かなめは、はっ! として「違いますよ。私達は心霊現象の専門家です」と出来るだけ冷静に、そしてにっこりと微笑みながらルームミラーに向かって返答した。


「あ〜霊媒師さんか何かですか? それは失礼しました! いや〜てっきり愛を育みに来たカップルの方かと思いましてね! 今はそれほどでもないですけど夏なんて特に多いんですよ」


「余計な話はいいから飛ばせ」と卜部が話を遮る。


 運転手は悪びれた様子もなく、やはり一人で楽しそうに笑いながら頷いている。


 多種多様な他人と「移動する狭い密室」という特殊な空間を共有することを生業とする彼にとって、この無邪気さと無神経さは自分を守るためのある種の結界として機能しているのかもしれない。


「それにあそこは嫌な事件もありましたしね……」

 

「え?」とかなめが聞き返そうと思った時、車はと書かれたのれんの前に停車した。


「はい! 到着です! またのご利用をお待ちしています!」運賃を受け取り運転手はさっさと走り去ってしまった。


「先生、あそこで事件があったって」


「ん? ああ。それよりこの店はなかなか良い佇まいだ。期待できそうだぞ」卜部はそう言うとさっさとのれんをくぐって店に入ってしまった。

 

 小さな店だった。古い杉板の外装に藍色ののれんがかかっただけの飾り気のない外観。しかし外装の杉板は分厚く、何度も柿渋かなにかを塗り直された様子で傷んでいる様子はなかった。


 中に入ると、老夫婦が「いらっしゃい」と迎えてくれた。入って正面にカウンター席が五席ほどあり、その手前にテーブル席が四席という出で立ちで他の客はいなかった。


 使い込まれて、まるで濡れているかのような艶を放つ木製のテーブルと椅子は、長い月日が角という角を洗い落としてしまったようだ。店内はなんとも温かい空気が満ちていた。


「良いお店ですね」かなめは卜部に囁いた。卜部も機嫌がよさそうである。

 

 和紙に墨で書かれたお品書きを真剣に見つめる卜部をかなめが眺めていると「ご注文はおきまりですか?」と腰の曲がった女将がやって来た。


 ちらりと卜部の方に目をやるとコクリと頷いたのでかなめは「はい。お願いします」と明るく答えた。


「私は天丼とざる蕎麦のセットをざる二枚でお願いします」


「お前、そんなに食うのか?」卜部が目を丸くしてかなめの方を見る。


「だってあんなことがあったんですよ? お腹空いちゃいますよ」


「普通は食欲がなくなるもんだろ? 大した奴だよ」そう言って卜部は呆れた顔をした。


 その様子を見ていた女将がクスクス笑いながら「よく食べる女の子は良いお嫁さんと相場が決まってますよ。旦那様は何になさいますか?」と言った。


 かなめが慌てて否定しようとしていると「旦那様じゃない。仕事の上司みたいなもんだ。俺は山かけ蕎麦をくれ。あと蕎麦の実飯そばのみめしを頼む。」と卜部が先に言ってしまった。

 

 あたふたするかなめに気がついた卜部は「なんだ? どうかしたのか?」と問いかけた。


「なんでもありません。ところで先生ってベジタリアンですか? 肉類食べるところ見たことありません」


「別にベジタリアンなわけじゃない。ただ氣が少し濁るんでな。仕事が入ってる時は避けるようにしてる」


「へえ。やっぱりそういうことってあるんですね。よく菜食にすると霊感が高まるとか言いますもんね」


「誰でもそうなるわけじゃない。ほとんどの奴は、五感が冴える延長線で霊感が高まった気がしてるだけの場合がほとんどだ。そもそも食事の内容だけで、その時々に応じた感じるべきものを感じ取れるようになるわけがない」卜部はそう言うとふと足元に目をやった。


 かなめもつられて足元を見たが何もなかった。「なんですか?」と聞こうと思った時ちょうど女将がざる蕎麦と天丼を運んできた。


「うちは挽きたて打ち立てがモットーですので美味しいですよ」そういって年老いた女将はかなめに目配せする。なんともチャーミングな人だ。


「旦那様もすぐお持ちしますんでお待ち下さいね」再び卜部が訂正しようとすると女将はくるりと踵を返して厨房に帰っていった。

 

 すぐに卜部のざる蕎麦と蕎麦の実飯もやってきた。卜部は「いただきます」と呟いて丁寧に手を合わせる。そして蕎麦を少しだけツユにつけて、ずずっと一息に飲み込んだ。「蕎麦慣れしてるな」とかなめは思った。


「うん。美味い」卜部は小さくそう漏らすと、満足そうに蕎麦の味と香りそして喉越しを楽しんでいる。それを見届けてかなめも蕎麦に手を付けた。


「ほんと。すっごく美味しい! 先生! 私こんなに美味しい蕎麦初めてかも知れません!」


 かなめもずずずずと音を立て、どんどん蕎麦を吸い込んでいく。時々天丼に箸を伸ばし、サクサクと美味そうな音を立てながら幸せの表情を浮かべていた。


 蕎麦の実飯に手を付けて卜部はまたも関心している様子だった。香ばしい蕎麦の香りがかなめのほうにも届いてくる。

 

 二人は話すことも忘れて夢中になって蕎麦を食べた。食べ終わったころに女将が蕎麦湯を持ってやって来た。


「美味しそうに食べていただいてありがとうございます。奥で主人も喜んでました」そう言って女将はにっこり微笑んだ。


「あんた達が丁寧に店を切り盛りしてきたのが伝わってきたよ」卜部はそう言い蕎麦湯を美味そうにすすった。


「お二人みたいなお客さんが来てくれると、まだもう少し頑張らないと。って思うんですよ。時々いるのよ。そういう気にさせるお客さんが」その女将の言葉がかなめはなんだか無性に嬉しかった。


 お勘定の時に卜部は「猫が餌を欲しがってるみたいだぞ」と女将に言った。女将は目を丸くして「あらまあ。驚いた」と口を手で押さえた。


「しばらく前に亡くなったのよ。寂しくなっちゃったんだけど。そう。まだいてくれたのね……」


「招き猫を気取ってるんだろう。一番いい場所で陣取ってるよ」卜部はテレビの上をちらりと見た。


 女将は深々と頭を下げて二人を見送った。かなめは卜部の横顔見ながら「普段はぶっきら棒なのに……」と呟いた。


「なにか言ったか? 亀」卜部がかなめを見る。


「か・な・めです。何でもありません!」二人はタクシーを拾い家路についた。先程の恐怖はすっかり消えて、かなめはお腹の中にある確かな幸福の余韻を反芻はんすうしていた。

 

 この時かなめは、このあと自分に降りかかる恐怖を、まだ知るよしもなかった。

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