ケース1 山下邦夫の話②
山下邦夫は
「なあ。あんた離婚したほうがいい。そんな女さっさと別れたほうがいい。離婚調停でもすれば慰謝料だって馬鹿みたいにふんだくられることはないだろう」
しばらくの沈黙を破って卜部はそう言い放った。
山下は呆然と聞いている。いや。卜部の吐き出した言葉の意味がよく分からないといった様子だった。
それを見たかなめは、卜部に抗議する。
「ちょっと! 先生! そんなの無茶苦茶ですよ! 呪いの悪夢に困って相談に来られたのに、離婚だなんて」
「黙ってろ。それで悪夢も解決する。だいたいこのまま嫁さんと縁を繋いだままでいるほうがよっぽど悪いことになると言ってるんだ」
「でも……」かなめは言葉に詰まってしまった。卜部の言う『よっぽど悪いこと』は大抵の場合、本当によっぽど悪いのだ。
かなめは山下の方に目をやった。彼はまるで電気椅子に縛り付けらた囚人のように微動だにしなかった。目はカッと開かれており、虚空を見つめている。かけるべき言葉が思いつかずかなめはうつむく。同情というよりも自分の無力が口惜しかった。
卜部はうつむくかなめと固まる依頼人を見て、ハァとため息を漏らしこう続けた。
「最終的に決めるのは依頼人のあんただ」
五分ほど経っただろうか。本当はもっと短い時間だったのかもしれない。重苦しい沈黙の後、山下は「妻と娘を失いたくありません」そう絞り出すように呟いた。
「いいだろう。ここに書いてある金額を現金で持ってこい。先払いだ」
卜部は殴り書きの請求書を山下の前に放ってよこした。
「はい。明日の朝一で持ってきます」
山下は金額の書かれた紙切れを大事な物でもしまうかのように丁寧に革のビジネスバッグの中にしまった。
「それと、廃ビルってのはT県境にある線路と川に挟まれたあそこのことか?」卜部は静かに問いかけた。
「どうしてそれを? そのとおりです……」
山下の顔は青ざめていた。無理もない。助手のかなめでさえ驚きを隠せなかったのだから。
山下は何度も頭を下げながら帰っていった。山下の足音が階段を下りきったことを確かめると、かなめはすぐさま卜部に質問する。
「なんで分かったんですか? 廃ビルの場所」
「さあな。俺にも後ろ暗い経験があるからじゃないか」
「真面目に答えてください!」
かなめがすかさず言う。
卜部は少し驚いた様子で「逆になんでそうじゃないと思うんだ?」と聞き返す。
「そんなの当たり前です。先生が売春なんてしたらストレスで胃に穴が空いて入院しちゃうに決まってます。」
「行くぞ。亀。廃ビルを調べる」卜部はあからさまに不機嫌な顔をしてそう言った。
「かめじゃなくてかなめです」
そう言ってかなめは卜部を追って事務所のドアを出た。
廃ビルに着くころには、あたりはすでに薄暗闇に覆われていた。途中で三度ほど電車を乗り換えてたどり着いたのは、県境の偏僻なところだ。田んぼが広がり、山も近い。外灯はほとんどなく錆びついた踏切のそばにひとつ、その先百メートルほどのところにもうひとつ。ここからでは他の光源は見当たらない。
最寄りの駅で下りてから線路沿いに砂利道を歩いてここまで来た。駅から随分離れているが、次の駅はまだ大分先にあるようだった。その錆びついた踏切を越えたすぐのところに
廃ビルの裏手には大きく蛇行した川が流れていた。廃ビルはちょうど、その川のカーブの外側と線路に挟まれるような位置関係にある。踏切からまっすぐに進んだ先には朽ちかけた廃墟のようなものが見えたが暗くてよくわからない。
「気をつけろ。この踏切は人が死んでる」
卜部は廃墟らしきものの方を見ながらそう呟いた。
「え?」
そう聞き返した時、突然踏切がけたたましい音を立て始める。
カンカンカンカン。
しかし電車が来る様子はない。
カンカンカンカン。
踏切は鳴り続けている。
カンカンカンカン。
「行くぞ」
卜部はかなめの腕を引いてそう言った。踏切はもう鳴り止んでいた。
「い、今のは?」
かなめが振り向きながら訊ねる。
「誤作動か何かだろ。気にするな。それとも何か見えたのか?」
ちらりと卜部が振り向いてかなめを見る。
かなめは首を横に振って少し早足で卜部の近くに寄った。本当は何かを見た気がしたが怖くて言えなかった。言えば見たことが
廃ビルに到着すると嫌な静けさがビル全体を包んでいた。こういう廃墟にありがちな落書きなどもなく打ち捨てられたままの姿で時だけが過ぎたような
廃ビルにの前に立つと、卜部は三階のあたりをじっと見つめていた。しばらくすると「こっちだ」と言って正面扉の横にある破れたガラス戸から中に入っていった。迷うことなく何かに導かれるように卜部は進んでいく。
廃ビルの中はかび臭い空気が充満していた。かなめは口元にハンカチをあててそれを直に吸い込まないようにしていた。カビや埃そのものではなく、それらに何者かの呼気や体液が染み付いているように思えたからだ。それはひどく毒性の強い悪意をそなえた分泌物で、家に帰って一人ベッドに横たわる時を見計らって姿を
かなめがそんなことを考えていると、突然前を歩く卜部にぶつかった。
「あうっ」
「何ぼさっとしてる。ついたぞ亀。」
「かなめです。どこに着いたんですか?」
「山下が女を買った部屋だ。十中八九ここで間違いないだろう。」
卜部は懐中電灯でドアの上にある『給湯室』のプレートを照らした。中に入るとがらんとした部屋の中に、どこからか持ち込んだであろう真新しいしいベッドが安置されていた。朽ちた建物に真新しいベッドという異様な光景のせいもあるかもしれない。しかしその部屋には、決してそれだけが原因ではない独特の気持ちの悪い気配が残っていた。
かなめはその気配を知っていたが思い出せなかった。忌まわしい記憶の中に気配の正体を探ったが目ぼしいものは見つからなかった。ふと気になって窓から外を見ると先程の踏切が見えてぞくりとした。背中を冷たい汗が伝うのを感じる。
「ここからちょうどあの踏切が見えるんですね」
振り向くと卜部の右後ろに男が立っていた。
「きゃあ!!」
かなめは思わず叫んでしまった。全身に鳥肌が立ち一気に心拍数が跳ね上がる。血液がどっどっどっと太鼓のような音を立てて流れるのが耳の中で聞こえる。どうするの? 何をすればいいの? 人間? 誰? 幽霊?
パニックになってあたふたしていると「大丈夫だ。落ち着け」と卜部の声がする。それは普段と何も変わらない様子の声だった。
「大丈夫だ。今俺たちに害を加えられる存在はここにはいない。姿が見えただけだ。それももういない」
「一体何だったんですか?」
いつの間にかへたり込んでいた体を起き上がらせながらかなめは尋ねる。
「さあな。それを調べに来たんだ。というよりも、確認しに来たと言ったほうが正しい。さあ帰るぞ」
こくりと頷いて卜部の後に続く。しかしかなめはひとりこびりつく不安を拭いきれなかった。なぜなら踏切で目にした何かは今の男ではなかったから。
では私が見たものは一体何だったのか? その問はかなめにある種の不快感を与えた。まるで粘着質な床に足を取られるような。廃ビルの廊下は埃っぽくて乾燥していた。にもかかわらず、まとわりつくような不浄な気配が、床面からべたべたと足の裏にへばり付いてくるようだった。
一刻もはやくここから立ち去りたい。それなのに、まるでゼリーの中を進んでいるような抵抗を感じるのは、あの踏切をもう一度横切らなければならいことを私のなかの何かが恐れているからだろう。
「またあの踏切のところを通るんですよね?」
知らずに不安が口を突いて出てしまったことに自分でも驚く。
「いや。タクシーで帰る。」
「え!?」
当然またあの道を歩いて帰るものだと思っていた。踏切を調べつつ。
「タクシーで帰るんだよ。せっかくこんな
かなめは気が抜けてしまい何も言えなかった。卜部が自分を気遣ってくれているのか、単に好物の蕎麦を食べたいだけなのかはわからない。ただ卜部の発言のおかげですっかり憂鬱な気分は消え失せていた。足の裏にこびりつくべたべたとした気配もいつのまにか乾いた埃の感触に戻っていた。
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