ケース1

ケース1 山下邦夫の話①

 山下邦夫くにおは薄汚れた事務所の前に立っていた。


 雑居ビルの五階にその事務所はあり、摺りガラスのはまったアルミ製のドアには白いプラスチックのプレートが貼ってある。


 そのプレートには明朝体の黒字で「心霊解決センター」と書いてあった。


 なんとも胡散臭い。


 一瞬帰ろうかとも思ったが他に頼るあても無いので諦めてドアノブに手をかけた。


「ごめんください」


 自分でも驚くほど頼りない声だ。無理もない。この二週間、ほとんどまともに眠っていないのだ。


「ごめんください」


 今度は大きな声で言い直した。しかしその声にもなんら応答はなかった。

 

 伝える相手のいない声は虚しく事務所の壁やソファに吸い込まれていく。事務所の中には人気が無かった。なんというか生命力のようなものが感じられなかった。蛍光灯の明かりがやけに薄暗く感じられた。ブラインドは下りていたが、仮に全開にしていたとしても窓のすぐ向こうには隣のビルが建っているために採光も風通しも望めないだろう。


「やっぱり来るんじゃなかったな」


 そう呟いて帰ろうと振り向いたとき若い女性が目を大きくしてこちらを見ていた。


 身長は高すぎず低くもなく、肩甲骨くらいまで伸ばした髪を群青色のシュシュで束ねていた。服は黒いスーツと白いブラウスを着てスーツと揃いのタイトスカートを履いている。目は胡桃色くるみいろで明るい光を放っており、見るからに人懐こそうな印象を与えた。


 彼女はこの事務所の憂鬱な空気にまったく不釣り合いに見えた。事実先程までの不吉な空気はいつのまにか消えて観葉植物の緑が活き活きと光っているようにさえ見えた。


 呆気にとられて言葉に詰まっていると「先生に御用ですか!?」と明るい声で彼女は詰め寄ってきた。


「私は先生の助手の万亀山まきやまかなめです。すぐに先生をお呼びしますね!」


 そう言うと彼女は部屋の左手にある観葉植物の裏側に向かっていった。


 すると彼女は壁をドンドンと叩きながら大声で呼びかけた。


「先生! 先生! 依頼人の方がお見えですよ! 私がいないからって居留守をしないでください!」


 どうやらそこは壁ではなく、別の部屋に繋がる扉があるようだ。しばらくするとザーと水の流れる音が聞こえてきてガチャリとドアが開く音がした。


 噂は本当だったようだ。


「あんたが腹痛はらいたさんかい?」


 依頼人の男はおそるおそる尋ねてみた。


「腹痛さんが誰かは知らん。俺は卜部うらべだ。邪祓師じゃばらしの卜部だ。俺に何か用か? それとも腹痛さんに用か? 腹痛さんに用があるなら帰ってくれ」


 卜部はいかにも不機嫌な顔で依頼人を睨みつける。


「先生がいつもトイレから出てこないからそんな風に呼ばれるんですよ。いくら人嫌いのストレス性胃腸炎だからって居留守まで使わなくたっていいじゃないですか」


 かなめは困ったような、面白がったような表情で卜部に言った。


「ストレス性胃腸炎じゃない。この前の地蔵の霊障だ。あんなのは二度と御免だ」


卜部は忌々しそうに吐き捨てた。


「とにかく意地悪言ってないで依頼人さんのお話を聞いてください」


 かなめは電気ポットで急須にお湯を注ぎながら言った。


 卜部は恨めしそうに彼女を睨みながらソファを指さして依頼人に座るようように促した。革張りの焦げ茶色のソファは所々ひび割れていたが、腰掛けると固すぎず柔らかすぎずとても良い座り心地だった。実はアンティークのとても上等な品物なのかもしれないと依頼人の男は思った。


「まずは話を聞かせろ。金の話も今後のこともそれ次第だ」


 ガラスのローテーブルを挟んだ向かいのソファにどさっと座りながら卜部は言う。


 卜部は無愛想な態度ではあるがただならぬ気配を持つ男だ。卜部に出会った人間はたいてい、この男に嘘は吐けないと直感する。依頼人の男は覚悟を決めたようにポツリポツリと話し始めた。


「はい。私は山下邦夫と申します。ここでの話は内密にしていただきたいのですが……私には妻と娘がおりまして、とは言っても単身赴任でこちらに来たものですから、もう何年も離れたところで暮らしておるのですが。ちょうど二週間ほど前に会社の同僚に誘われまして非合法の売春宿のようなところに出向きました。恥ずかしいお話ですが、その前日に妻から金の催促と離婚の話があったもので、わ、私はもう腹が立って腹が立って、こんな仕打ちがあっていいのかと!! あの女がカルチャーセンターで若い男の先生に熱をあげてる間もこっちは家族のために必死で働いてるっていうのに!!」


 山下邦夫は握った拳を膝に乗せて小さく震えていた。


「それで同僚について行ったんです。やけくそだって感じでね。駅から線路沿いにしばらく歩いていくと薄汚れた廃ビルに着きました。そこに若い女の子が数人待機していたんです。女の子を選んで金を払って、ベッドがあるだけの薄汚い部屋に通されまして、まあ後はそういうことです」


 そう言うと男はうつむいて黙ってしまった。


「それで?」と卜部は山下の顔に鋭い視線を送る。おずおずと再び男は話し始めた。



「その夜から夢を見るんです。妻と娘のバラバラ死体の夢を」


 山下はまたもや黙ってしまった。


「詳しく聞かせろ」と卜部が静かに促す。卜部の声が少し真剣になったのをかなめは感じた。


「はい。その……部屋の中を千切れた指が芋虫のように這い回っているんです。その部屋で、頭部を半分失って、その……脳みそがこぼれた妻の片方の目がこちらをじろりと睨むんです。もう片方の目はありません。片一方の目だけがぐるりとこちらを向いて睨みつけてくるんです。私はその目が恐ろしくていつもそこで目が覚めるんです。きっと妻と娘の生霊か呪いなんです!! 私が二人を裏切って女を買ったりしたもんだから恨んでいるんです!!」


男は興奮した様子で気が付けば早口に怒鳴っていた。


 卜部は男が静かになるのを待ってから問いかけた。



「睨みつけてくるのは本当にあんたの嫁さんか?」



「はい。あれは妻に間違いありません」


「夢はそれで全部か?」


「はい。これで全部です」


「今の話にはあんたの嫁さんの死体しか出てこない。でもあんたはさっき妻と娘のバラバラ死体の夢だと言った。なぜ妻と娘だとわかるんだ?」


 かなめはほんの一瞬、部屋の空気がひやりとした気がした。静寂が部屋を埋め尽くす。


「あの指は、娘の指です。カラフルなマニキュアが塗ってありますから……」


 男は左上の天井を見つめながらゆっくりと呟いた。まるで何かを確かめるように。


「お願いします。この呪いから解放してください。もう何日もまともに眠っていないんです。お願いします」

 

 

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