第9話 勇気
アグリシアは夢の世界で生き続けていた。
夢の世界と現実の世界が重なっているかはわからない。でも、この世界でもう何回も朝を迎えている。
最初の頃は日々の生活を、朝から順を追って過ごしていた。だが今は所々抜け落ちているのに気がつく。
意識がなくなっているような時があり、普段通り過ごしていて記憶を無くしているだけなのか、本当にその部分を過ごしていないのかはわからない。
今のアグリシアの夢の世界は自分が楽しく嬉しい時間だけを、都合の良い部分だけの瞬間を重ねているだけだった。
何度も朝と夜を迎える。夜になれば自室の寝台に潜り込むのだ。
そして聞こえてくるのは、自分の名を呼ぶ声。
聞いたことのあるような懐かしい声だったり、切ないほどに懇願する言葉だったり。
その声を、言葉を聞く度にアグリシアは胸を締め付けられるように苦しくなる。
逃げ出したいほどに辛く、切ない時間。
だから聞かないように、何も考えないように、意識を手放すのだ。
その声が何なのか、もうわかっている。いや、最初からわかっていた。
自分を現実の世界へと呼び戻す声だと。
(もう、放っておいてくれればいいのに)
「アグリシア、やっと君とボートに乗ることが出来た」
嬉しそうに微笑むエドワードの笑顔が目の前にある。
気が付けばアグリシアたちは、あの湖の上でボートに乗っていた。
「この湖のボートに乗った二人は永遠を約束されるそうだ。だから、僕は君と乗ってみたかったんだ」
少し照れながらほほ笑むエドワードの顔が眩しくて、アグリシアは目を細めた。
水面を照らす太陽の光はキラキラと輝き、オールを漕ぐ彼の額の汗も輝いていた。
湖に落ちたのだからボートなど怖く感じるかと思ったがそうでもなく、ゆらゆら揺れるボートは思いのほか楽しかった。
「私、ボートなんて初めてです」
「実は僕もなんだ。アグリシアと一緒に乗れて嬉しいよ」
そんな、何でもない会話が心地良い。こんな風にずっと過ごせればいいのに。
ぼんやりとする時間が多くなった事にも気がついてはいたが、彼女にとってそれは幸せな時間になっていた。
何も考えず楽な方に身をゆだね、聞きたい言葉を、聞きたい人の口から話させる。
彼女の世界ではそれが可能なのだ。
(幸せ……だわ)
ふと気が付くと、エドワードが切なそうに自分を見つめていることに気が付いた。
「エドワード様。どうかされましたか?」
アグリシアの言葉に返ってきた言葉は、思いもよらないものだった。
「アグリシア。
僕は君と永遠を宿したいと心から思っている。
他の誰でもない、君と、アグリシアと永遠を誓いたいんだ」
突然の告白に戸惑いながら、こんな風に好きな人から想いを告げられて嬉しくないわけがない。アグリシアは胸を高鳴らせた。
でも、彼の口から出る言葉は自分を引き戻そうとする物ばかりだ。
自分でももう限界に達していることはわかっていた。
眠り続けてどれくらい経つのかはわからない。でもその間飲まず食わずで、ずっと寝台に横になったままなのだろう。
人間の生命力がどれくらいのものかなんて、アグリシアにはわからない。
それでも、自分の身体が悲鳴を上げるほどに衰弱し始めているだろうことはわかっている。だから、エドワードも、父や兄も自分の名を呼ぶのだ。
弱り切った体を目の当たりにして、どうにか救い出したいと切望し、声をかけ続けているのだと。アグリシアだって、そんなことわかっている。
目の前のエドワードがアグリシアに手を伸ばして来る。
向かい合わせに座ったボートの上。手を伸ばせば届く距離なのに、彼の手がアグリシアに触れることはない。
「アグリシア。もしできるなら、もう一度チャンスをくれないか。
僕のこの手を掴み、握り返してくれるだけで良い。そうしたら、二度と君の手を離さない。君を守ると誓うよ。だから、どうか僕の隣で一緒に生きてほしい」
差し出された彼の手は触れられるはずなのに、なぜか触れてはくれない。
「どうして? どうして私の手を取ってはくださらないのですか?」
祈りにも似た思いで切望しているのに、それでもエドワードはアグリシアの手を取ってはくれない。
「ダメなんだ。アグリシア、君が自分の意思で僕の手を取らなければダメなんだ。
君自身を救うには、強い意志が無ければ無理なんだ。
どうか僕を信じてくれ。僕のこの手を取り、やり直させてくれ」
この手を取れば楽になれるのだろうか?
でも、ここは夢の世界。自分で作り上げた幻想の世界。
見たいもの見て、聞きたい言葉を聞いて、会いたい人にだけ会う。
それが許される世界。
信じて目覚めた時に、また裏切られたら? 小言を言われ、馬鹿にされ、そしていつか見捨てられるようなことになったら自分は生きていられるだろうか?
もう、辛い日々を送るのは嫌。だったらこのまま夢を見続け、朽ちていく体とともに儚くなってしまうのも良いのかもしれない。
アグリシアの心は極限まですり減り、逃げる力も残されていなかった。
「アグリシア。君の笑顔がもう一度見たい。君の瞳に僕を映してくれないか。
お願いだ、この手を取りともに笑おう。
君を失いたくないんだ。
並んで歳をとり、命ある限りともに暮らしたい。
僕の手を取り、一緒に生きよう。
僕と一緒に生きてくれ。
アグリシア…… 」
伸ばされたエドワードの手を見つめながら、彼の頬を光の粒がこぼれ落ちた。
その光をすくうようにアグリシアの指がそっとエドワードの頬に触れる。
指先ですくい取ったその粒は暖かく、アグリシアの心を溶かしていく。
「エドワード様。私は生きていてもいいのですか?」
そっとささやけば
「ああ。ふたり一緒に生きよう。もう二度と君の手を離さないと誓うよ」
エドワードの頬に触れていたアグリシアの指を、彼の手が包み込んだ。
そして、アグリシアも強くその手を握り返した。
もう二度と離れないように、強く、固く握りあった手と手。
「アグリシア。愛している」
アグリシアの手を握り、その甲に唇を落とした。
彼女の頬を暖かな雫が伝い、声にならない言葉を口にするようにアグリシアの唇が微かに震えた。
震えるまつ毛が少しずつ瞼を揺らし、眩い光の渦が視界を埋める。
(もう一度、信じたい)
「……アグリシア?」
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