第8話 独白
アグリシアが眠りについてから十日が経った。
一度も目を開けようとしないアグリシアのそばには、ずっとエドワードがいる。
家に帰ることも拒否し、片時も離れようとはしない。いくら眠ったままとはいえ、婚約者といえど若い男女が同じ部屋で夜を明かすことは許されない。
今ではコレット家の客間を与えられ、夜はそこで眠るようになった。
しかし、寝台に横になったところで眠れるわけもなく、ウトウトはするが熟睡にはいたらず、エドワードは疲弊し続けていた。
同じようにアグリシアもまた、衰弱し続けている。
侍女のマリアがスープなどを口に運び少しだけでもと口元を濡らすも、眠り続けるアグリシアがそれを飲み込むことはない。
毎日体を清め、寝巻を着替えさせながら
「お嬢様、すっかりスリムになられましたね。気にしておられたお腹周りも大分落ちて、これなら今までよりももっと素敵なドレスが似合いますよ。
早く目を覚まして私にドレスアップのお手伝いをさせてくださいね。国一番の美しい令嬢に変身させますからね、楽しみにしていてください」
彼女の身体を拭き、髪をすき、最後に薄い白粉と紅をさす。薄い桃色の紅は可憐なアグリシアによく似合う。
衰弱の色が激しくなり顔色も悪い。マリアはどんな時も貴族の娘として誇りを持って生きていた彼女の尊厳を守るために、いつでも綺麗な姿でいて欲しいとアグリシアを綺麗に仕立て上げる。
エドワードがアグリシアの手を取り、その名を呼びかける。もう、毎日の日課のようになってしまった。
何度読んでも、どんなに思いを込めてささやいても、彼女が返事をすることはなかった。
「エドワード殿。シアの事は私たちに任せて、あなたはご自分の生活に戻られた方が良い」
兄リチャードがエドワードの背後から声をかける。
それでもエドワードはアグリシアの名を呼び続けることを止めようとはしない。
「あなたのご両親の伯爵夫妻も大層心配をしておられた。これではあなたまで倒れてしまう。こうなってはもう天に任せるしかない。それはあなたもわかっているだろう?
学園に戻り、学生としての自分の務めを果たしなさい。それをシアも望んでいるはずだ」
「アグリシアを守り切れなかったのは僕の責任です。彼女を失ったら僕はどうしていいかわからない」
「そんなに妹を想っていてくれていたなんて、兄として気が付かなかったよ。君はシアを嫌っているとばかり思っていた。シアもそう思っていたからね」
「僕は、彼女が好きでした。初めて会った時からずっと……」
エドワードの口から零れる言葉は今までの懺悔と、アグリシアに対する偽りのない熱い想いだった。
「初めて婚約者だと言われて会った時に、彼女の笑顔が可愛くて心を奪われました。
華やかさは確かに無いけれど可憐で、だけど品のある、貴族令嬢として振る舞うアグリシアは美しかった。
一つ下の学年にいてもアグリシアの実力は噂に上るほどで、僕は彼女に釣り合うような男になるためにとても頑張っていたんです。
そう、僕自身が彼女に引け目を感じていたのかもしれません。
領地経営にまで携わり、それを見込んで母が選んで迎えた婚約者です。でも、そんなことを抜いても僕はアグリシアを気に入っていました。
お母上を早くに亡くされて、令嬢としての振る舞いが今一つだと母に言われ、だからこそお前が彼女を守り教えてやれと言われていたんです。
だけど僕も慣れていなくて、アグリシアを前にすると照れてしまうし、恰好つけたくて気取ってしまう。本当ならもっと優しくしなくちゃいけないし、婚約者として恋人のように接してもいいはずなのに、それができませんでした。
いつも口うるさく言う僕を煙たがっていたのはわかっています。僕がしたことですから仕方のないことなのに、そんな彼女の態度も面白くなくて、どんどん悪い方に進んでいったんです。
一言ごめんと謝れば、きっと彼女は笑顔で許してくれるはずなのにそれができなくて。
苦しませてしまいました。
きっと彼女が目を覚まさないのは、僕を憎んでいるからかもしれません。
僕のせいで彼女は学園でも嫌な思いをしていたようだし、それを助けてもやらない僕を婚約者としては認めていなかったのかもしれません。
気がついてはいたんです。なのにそれが出来なかった。
今思えばなんで出来なかったのか分かりません。ただ一言、僕の婚約者に関わるなと、アグリシアを悪く呼ぶのはやめろと、それだけを言えばいいのにそれが出来なかった。
自分が悪く思われたくなくて、彼女を悪者にすることで自分を守っていただけの弱虫なんです。
彼女はいつも一人でも胸を張って美しかった。僕は彼女に憧れていたんです。
あの湖も、ボートに乗った二人は結ばれるという噂を聞いて、なんとかうまくいかないかと思いあの日行ったんです。
それなのに、上手く行くどころかあんなことになってしまった。
僕の伸ばした手を彼女は取ってはくれなかった。彼女が僕を拒んだんです。
僕はもう、アグリシアのそばにいることを許してはもらえないかもしれない」
肩を、声を震わせ語るエドワードの肩にそっと手を置き、リチャードは静かに部屋を後にした。
彼が十分反省し、アグリシアを愛していることは痛いほどわかった。
誰も口にしないが、エドワードが思っていたことは皆が心に秘めていたことだ。
アグリシアは自分の意思で眠り続けているのだと。
戻りたくない理由がエドワードの事だけなのかはわからない。それでも、切掛けになったことは確かだろう。
夢の世界に逃げ込むほどに現実世界が辛いのだ。全てを放棄してでも、その夢にすがり続け生きると決めたアグリシアの思いは、誰にも理解はできない。
でも、それをあざ笑うこともできない。
彼女を待つことしかできないのだと、皆が気付いていた。
「アグリシア、聞こえるか? アグリシア。
あの日乗ろうとしたボートは、男女で乗ると永遠の愛が宿るそうだ。だから君と乗りたいと思ったんだ。
あんな風に湖に落ちたんだから怖くて乗りたくないかもしれないけど、目が覚めて君が良いと言えば僕は君と乗りたいと思う。
君と永遠を宿したいと心から思っているから。
他の誰でもない、君と、アグリシアと永遠を誓いたいんだ。
君が僕を嫌がっているのは知っている。だけど、僕は君を始めて見た時から心を奪われていた。誰にも渡したくないほどに、君だけを見て来た。
信じてもらえないかもしれないけど、本当なんだ。
もし、できるならもう一度チャンスをくれないか。
今度は君を必ず守ると誓う。子どもじみたプライドなんて捨ててやる。
君を守ることに懸命で恰好悪いかもしれないけど、それでも君のそばにいると約束する。
僕はまだまだ未熟で君を支えてやれないかもしれない、だから君も僕のそばで僕の手を取りともに成長しよう。
今まで年上という仮面で君にさらけ出せなかった僕を全て見せるよ。弱く、頼りないかもしれないけど、君を好きな気持ちは誰にも負けない。
だから、どうか僕の隣で一緒に生きてほしい。
アグリシア。
僕の手をどうか握り返してくれ。
瞳を開けて、僕を見て。君の笑った顔をもう一度見たいんだ。
はにかむような顔も、少し怒った顔も、すべてが僕には眩しかった。
もう一度君の瞳に僕を映して欲しい。
アグリシア。
僕を置いていかないでくれ。
君を失いたくない。そんなの僕は、僕は嫌だ。嫌なんだ。
アグリシア。僕のそばで笑ってくれ。
アグリシア。
アグリシア…… 」
アグリシアの手を両手で包み、語り掛けるエドワードの声は震え掠れていた。
いつしか彼の瞳からは大粒の雫がこぼれ落ち……
握りしめたアグリシアの手に一粒落ちた。
暖かい涙の雫は彼女の手に吸い込み、消えて無くなった。
「……アグリシア? 」
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