第2話 後悔
そんなつもりは無かった。
エドワードは、アグリシアの差し出す傘に驚いて思わず手が出てしまったが、その手が偶然彼女の手に当たってしまっただけなのだ。当たった自分の手は思いのほか痛くてジンジンする。きっと、彼女も痛いに違いない。
大丈夫か?と声をかけた方が良いのはわかっている。わかっていても今更素直になど出来ない。思った事を口にするのが恥ずかしくて、わざと冷たい態度を取ってしまう。
アグリシアを罵る言葉など本当は口にしたくないのに、素直になれないエドワードの口からこぼれる言葉は悪態ばかり。
声にした言葉は戻らない。自分が悪いことはわかっている。それでも素直に謝ることが出来ずに心配で彼女の様子を伺えば、口が弧を描き笑って見えた。
そんなはずはないのに、そんな子じゃないとわかっているのに、自分の情けなさで一瞬頭に血が上り、つい手が出てしまっていた。
そんなに強く押したつもりは全くない。でも、彼女は後ろによろめくとそのまま湖に落ちてしまった。
まるで自分の意思でそうするかのように……。
アグリシアの名を叫び膝をついて手を伸ばすのに、彼女はその手を取るどころか、日傘を持ったまま手を伸ばすことすらしてはくれなかった。
まるで自分の手を取ることを拒むように。
瞬く間にアグリシアは水の中に消えていった。
エドワードは何の躊躇いもなく湖に飛び込んだ。
アグリシアの体はドレスが水を吸い込み、湖の深い底に吸い込まれるように沈んでいく。
彼はアグリシアの腕を掴むと抱え込むようにして浮上する。
水を吸ったドレスは重く、青年であるエドワードの力を持ってしてもきついものがあった。それでも彼はアグリシアの体を離すことはない。
瞳を閉じ、薄っすらほほ笑んだようなその顔は、まるで眠っているようだった。
彼女のこんなに安堵したような表情を見るのは初めてな気がする。
それくらいアグリシアは、彼と一緒にいる時は表情を崩すことがなかったのだと、エドワードは思い知らされた。
アグリシアの家に運び、子爵や兄が動き続ける中、エドワードは何もできずにただ彼女のそばにいた。
医師の診断では命に別状はないとのこと。一晩様子を見るようにとのことだった。
まずは皆で安堵するも、エドワードだけは己の責任を強く感じ看病したいと訴えるが、それは叶わなかった。
自分の手をつかんではくれなかったアグリシアの手を両手で握り、「アグリシア、わかるかい? アグリシア」と、その名を呼び続けた。
彼女のそばを離れようとしないエドワードを、伯爵夫婦が見舞いがてら引きずるように家へと連れ帰った。
エドワードとアグリシアの婚約は、彼の両親であるハーレン伯爵家からの強い打診からだった。
エドワードは両親から、アグリシアは頭もよく領地経営などには恵まれた才能を持っている。だが、令嬢としての資質は少し欠けているようだと教えられていた。
母親を早くに無くし、父である子爵も後妻を娶ることがなかったので、令嬢としての教育をきちんと受けてこなかったからだろうと。
刺繍など手仕事が出来なくてもさほど問題はないが、茶会や夜会などで淑女とは名ばかりの狸連中の中を掻い潜るだけの知力は無いようだとも。
だから、お前が側にいて彼女を守り、教えを授けてやれと告げられた。
元々は能力の高い子だからと。
確かにアグリシアと同じ学園に通い、一つ下の彼女は学園の成績は群を抜いて高い。
彼女に見合うだけの男でいるために、エドワードは努力をかかすことが出来なかった。
少しは息を抜いたり、羽目を外したいこともあるが、彼女の成績を見るとそれも躊躇われてしまう。
学園ではアグリシアはいつも本を読み、他の令嬢と話をしている様子がない。仕方がないので、自分の友人に声をかけ仲間に入れてもらったりしても、アグリシアはうまく輪に入ることが出来ないようだった。
これでは伯爵夫人として先が思いやられるので、少し強いことを口にし始めたら彼女はどんどん萎縮し始めた。これではまるでエドワードがいじめているようだ。
何となくバツが悪くてそっけない態度を取れば、益々悪循環のようになってしまった。
今更、軌道修正するのは難しい。あと少しで自分は学園を卒業する。そうしたら、友人たちの目も遠ざかるから、その後でゆっくりと二人の仲を改善すれば良い。
と、エドワードは自分の中で思ってはいた。だが、それを口にすることは一度も無かった。
婚約者とはいえ違う家で生活をし、違う家族、使用人、同じものなど無い中で、言葉にしなければ伝わらない事は多い。
二人の思いは同じはずなのに、若さゆえの気恥ずかしさでそれを避けてしまっていた。
すれ違い絡まってしまった恋心は、簡単に解けることはない。
もっと早くに気が付いていれば、あるいはこんな事にはならなかったのかもしれない。
いや、なるべくして起こったことなのかもしれない。
それくらい二人の仲は拗れていたように思う。
家に戻ったところで眠ることなどできないのに。
目を瞑れば浮かぶのは、落ちていく時のアグリシアの瞳。
自分を見ているはずなのに、そこに自分は映っていないような。
二度と手の届かない所に行ってしまう、そんな不安にさせるような眼差しだった。
なぜ、もっと優しくしなかったのだろう。
なぜ、もっと自分の想いを口にしなかったのだろう。
エドワードの中には強い後悔だけが渦巻き、心は今にも千切れてしまいそうだった。
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