その手を掴めるようになるまで ~夢の中のアグリシア~
蒼あかり
第1話 眠り
肩をドンッと押された彼の手は思いのほか力強く、後ろに二、三歩よろめいてしまった。
気が付くと片足が宙を浮き、地につかない。そのまま体はまっすぐ後ろに落ちていった。
久しぶりに目が合った彼の瞳は心底心配そうな眼差しをしていて、そんな目で見つめられたのはいつぶりだろう? いや、初めてかもしれないなとアグリシアは思った。
「アグリシア!!」
婚約者のエドワード様にちゃんと名前で呼ばれたのなんて、婚約した頃だけかも?
いつも「アグリー(醜い)」って呼ばれて、周りも同調したように私を「アグリー」って呼んで笑われていたし。
私の名前なんて忘れたのかと思ったけど。なんだ、ちゃんと覚えているじゃない。
必死の形相で伸ばす彼の手が目の前にあったけど、その手を掴むのはやめておくわ。
だって、その手を取ればまた苦しい思いをしなきゃダメなんでしょう?
いつも「令嬢らしくない、出来損ない」って馬鹿にされて、皆に笑われても庇ってはくれなくて、彼はそれを見て苦い顔をしていた。
私では不釣合いだったのよ。
辛くて助けを求めても、お父様は子爵家が伯爵家に物申すことなんて出来ないって、力になってくれないし。
お兄様だけが気持ちをわかってくれるけど、ちょっと間に入ってくれるだけで結局何も変わらない。
結婚して後継ぎを産んでしまえば務めは果たしたことになるから、後は自由に好きにすればいい、贅沢も出来て幸せになれるってお父様は言うけど。
私は贅沢がしたいわけじゃないの。出会った頃の優しいエドワード様と、笑っていたいだけなのに。
もう疲れたわ。少し休んでも良いわよね? だって、私なりにすごく頑張ってきたから。
少し眠らせて。目が覚めたらちゃんと元気になるから。
落ちていく一瞬のこと。アグリシアは全てを放棄し、そっと瞳を閉じた。
~・~・~
アグリシア・コレットは婚約者のエドワード・ハーレンと一緒にボートに乗ろうと、湖の桟橋で空きボートが来るのを待っていた。
少し蒸し暑い日、桟橋の先は風が吹き心地いいですよと言う貸しボート屋の言葉を受け、エドワードに手を引かれ桟橋の先まで来ていた。
言葉の通り気持ちのいい風が首筋を吹き抜け、少し火照った体を冷やしてくれるようだった。
会えば小言を言うエドワードも、他人の前ではきちんと紳士の務めを果たしエスコートはしてくれる。しかし二人になった途端、口をついて出てくるのは聞きたくもない憎まれ口ばかり。
「まったく、こんな蒸し暑い日になんでこんなことしなきゃならないんだ?」
「申し訳ありません。大事なお時間を私のために……」
「定期的に会うようにと、母上の命令だ」
「はい……。申し訳ありません」
不機嫌そうに顔を反らし、湖の奥に視線を向けるエドワードの額が汗で光っていた。
風が吹いて涼しいとはいえ日差しは強い。少しでも日陰になるようにと、アグリシアは自分の日傘を彼の上にそっとかざした。
突然自分に向けられたアグリシアの手に驚いたエドワードは、「余計な事をするな」と、その手を払いのけた。
なんとか日傘を落とさずにいられたが、払われたその手はジンジンと痛み出し、アグリシアはそっともう片方の手をあてる。
これ以上怒らせないように余計な事はしない、余計な事は言わないでおこうと決め、ボートに乗った楽しそうな人たちをぼんやりと眺める。
恋人なのか? 婚約者なのか? 向かい合わせに座り楽しそうに会話をし、微笑みあう。
アグリシアは、そんな人たちが羨ましくて仕方がなかった。自分達には絶対無理なことだから。
そんな思いが心を伝い、視線に乗っていたのかもしれない。
「こんな所に来てまで、お前の視線の先には男がいるんだな。本当にどうしようもない女だな、お前は」
「っ!? 違います。決してそのようなことはありません。私はそのような人間ではありません」
ついムキになって反論してしまったが、また何か言われてしまうのではとアグリシアは無意識に身構えてしまう。
「もういい」
視線が重なりあう事もないままにエドワードの口からでた言葉は、もはやアグリシアへの興味すら無く、存在すら鬱陶しいように聞こえてしまうものだった。
アグリシアはそんな自分が情けなく、可笑しくなった。
「ふっ」と漏れた声にエドワードが振り向くと、アグリシアの口元は上がり笑っているように見える。
その顔を見た時、エドワードは自分でもわからない怒りが込み上げてきて、思わず手が出てしまっていた。
「馬鹿にしているのか?」
エドワードは思ってもいない言葉が口をついて出て、気が付けば思わず伸ばした手がアグリシアの肩を押していた。
咄嗟の事で力の加減がうまく出来なかった。気が付いた時にはアグリシアが後ろによろめき、そのまま吸い込まれるように湖に落ちていた。
すぐに差し出した手を取ることもなく、彼女は水の中に沈んでいく。
最後に絡んだ瞳には怒りのような物はなく、そこには諦めや安堵のような物が映っていた。
エドワードは、この日の事を生涯忘れることはない。
アグリシアの手をつかまえることが出来なかった自分を、決して許すことは出来ない。
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