第3話 夢の中


『アグリシア、アグリシア』



 誰かが自分の名を呼んでいる。



「お嬢様、おはようございます。もうお目覚めの時間ですよ。早くしないとエドワード様がお見えになります。お待たせしてはいけませんからね、早く起きてください」


 聞きなれた声にゆっくりと目を開けると、開けられたカーテンから眩しい日差しが入り込みアグリシアを包み込む。

 身体を起こし、寝ぼけた頭をなんとか稼働させてみる。


(ん? 私、昨日湖に落ちて……。あれ? 溺れたんじゃないの?)



「ねえ、マリア。私、昨日は何をしていたかしら?」

「ええ!? どうなさったんですか? 昨日のお嬢様は、エドワード様とのお出かけが嫌すぎて、ずっと文句たらたら漏らしていたじゃありませんか? まさか、忘れたんですか?」

「文句をたらたら? え、ちょっと待って? どういうこと?」

 

 確かにエドワードとのお出かけが嫌でずっと文句を言っていた。その翌日にふたりで出かけて湖に落ちたのだ。


(もしかして、夢? まさか湖に落ちたのは夢だったの?)


 テーブルの上に置かれた暦を見ると確かに一日、日付が戻っている。

 今日が湖に落ちた日だ。


(ん? ちょっと待って。こっちが夢ってことは?)


 アグリシアは自分の頬を思いっきりつねってみた。


(やっぱり。痛くない)


 力の加減をせずに思い切りつねった頬は赤くなってしまったようで、慌てたマリアが叫ぶようにアグリシアの頬を抑えた。


「お嬢様。いくらエドワード様との面会が嫌でも、こんなことしてはいけません。

 ほら、頬が赤くなってしまったじゃないですか。お化粧でごまかせますが、もっとご自分を大事にしてくださいね。

定期的な面会は婚約者として仕方ない事です、諦めてください。その代わり、晩御飯のデザートにはお嬢様の好きなシュークリームを用意しておきますから。楽しみにしていてください」


 にっこり微笑むマリアを見ながら、アグリシアは思い出すように考える。昨日、こんな場面は無かったはず。

 

(やっぱり夢なんだ。そっか、私ったらまだ眠っているのね。まったく、私らしいわ)


「お嬢様。そろそろ身支度を整えませんと、約束のお時間に間に合いません。朝食はお部屋にお持ちしましょうか?」


 マリアの言葉に我に返ると、

「ねえ、マリア。私、今日は少し具合が悪いみたいなの。エドワード様との約束、お断りするわけにはいかないかしら?」

「え!! 元気だけが取り柄のお嬢様が、具合が悪い?それは大変です。わかりました、ハーレン家への連絡は執事のセバスチャンさんに頼んでおきますから、お嬢様は今日一日、ゆっくりしていてくださいね。いいですか?」

  

 マリアは朝食に軽い物をお持ちしますね。と言って部屋を後にした。


 部屋に一人になってアグリシアは考える。

 夢を見ているままなら、それも良い。きっといつか目が覚めるだろうから、今はこのまま好きなように夢を見続けていたい。

 ずっと苦しい思いばかりだったけど、この世界では好きに過ごそう。

今まで出来なかったことをして、行きたいところに行って、やりたいことをやろう。

 婚約者のエドワード様がうるさいし、気兼ねもあって我慢していたことが多すぎる。

 夢の世界なら自分は自由だ! なんなら婚約も解消して新しい恋を始めたって構わない。


 そんなことを考え始めたら、段々とわくわくしてきて元気が出て来てしまった。 

 なんだかお腹も減って来た。まずは腹ごしらえだ!と、寝巻のまま部屋を飛び出し食堂まで走り、両親や執事のセバスチャンにお目玉をくらうことになってしまうのだった。



 身支度を整えると、いつものように食堂で両親と兄と一緒に朝食をいただく。

 いつもの日常に見える。特に変わったところはない。


「お嬢様、そろそろ準備に取り掛かりませんと、お約束に時間に間に合いません」

 マリアに言われて仕方なく部屋に戻ろうとした時


「アグリシア。エドワード殿とは上手くいっているのか?」


 父の言葉にアグリシアは何と答えて良いかわからなかった。上手くいってはいない。むしろ嫌われているはず。でも、それを正直に話すことも憚られる


「お父様、わたしは……」


「シア、無理をしなくても大丈夫だ。家の為にお前が我慢をすることなんてないんだから。

 お前さえよければ、嫌いな相手と結婚などせずにこのまま家にいればいい。お前一人くらい僕が養ってやるさ」

 

 アグリシアに助け舟を出したのは兄リチャードだった。いつもリチャードはアグリシアに優しく声をかけてくれる。辛い時にアグリシアが欲しい言葉をかけてくれるのだ。

 そんな優しい兄がアグリシアは大好きだった。


「お兄様……」


 アグリシアはとても聡明な娘だった。

 兄の言葉の裏に秘めた思いをしっかりと理解できるほどに。

 アグリシアは器量こそ平凡ではあるが、とても優秀な子で、父や兄を手伝って領地経営に携わっていた。

 兄リチャードが決して劣っているわけではないが、アグリシアの前では霞んでしまう。

 父もそんな二人をよくわかっているために、令嬢が領地経営など恥とされるところを敢えてやらせていた。

  

「お父様。私、エドワード様と上手く言っているとは、正直とても言えません。私では伯爵家の女主人は無理だと思います」


 アグリシアは、今まで言いたくて言えずにいたことを口にした。

 最近のエドワードの態度が余りにも酷くて耐えられず、何度涙を流したことか。その都度父に頼んでも仕方ないと言われてしまう。仕方のないことはアグリシアにもよくわかっている。だからこそ、ずっと心に閉まって口に出すことを諦めてきた。

 でも、たとえ夢の中でも言葉にしたことで、アグリシアはとてもスッキリとした気分になっていた。

 

(なんだ、ダメ元でも良いから口にすれば良かった。一人で抱え込んでいた自分が馬鹿みたい)


 そんなアグリシアに、

「お前がそんなに悩んでいたとは、すまなかった。この婚約、もしうまくいかなければ私の方からも伯爵家に願いでてみるよ。なに、二人ともまだ若いんだ。婚姻後に気が付くよりもよほど良いさ」


 父はにこやかに笑って答えてくれた。

 アグリシアは夢の中の事とは言え嬉しくて、嬉しくて飛び跳ねたい気持ちだった。


(言葉にするって大切なのね)


 そんな事を考えながら、マリアと共に身支度の為に部屋に戻って行った。


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