第36話 白昼夢

 夢の中で夢だと分かると、いつも私はしていることがある。

 

 それは――、信じること。私の背中には翼があると。

 そうすれば白い翼がバサリと生えて、この夢のような国で私は自由に飛ぶことができる。風を切って自由に。全てのしがらみを捨てて。


 でも……今回は違う。

 明らかに夢だとは思うけれど――、目の前の彼女と話さなければならない。

 誰に言われなくても、それは分かる。


 身体の重みも、まるで現実のようだ。

 翼はきっと生えない……これは白昼夢と言われるものに近いのかもしれない。


「初めましてかしらね、ライラ様」


 挑発するような口調で私に話しかける彼女は、ライラそのものだ。


「あら、ずっと私の中にいたでしょう? 私になる前のライラちゃん」


 私も同じように挑発するように笑ってみせる。


「可愛げのない女性ね。それでよくもヨハネス様を誑かせたものだわ」


 私はどうして、こんな夢のような場所で彼女と話しているのだろう。そもそも前後の記憶があまりない。


 あの六人での楽しい半年間は終わってしまった。最後に皆と学園外で遊び、ジェラルドとはお別れをした。

 学園祭の後にメルルとセオドアが恋人同士になったことで、メルルに連れてきてもらった私も「秘密の花園」に行けるようになり、委員会時間を除く日の曜日はヨハンとそこでのんびりさせてもらうことになった。


 現実の私は何をしているんだろう……。

 ヨハンと花園でお昼寝でもしているのかな。


「聞いているの? 無視をしないでいただける?」

「あら、ごめんなさい。あなたが可愛げのある女性であることは、私がよく分かっているわよ。今までのあなたのお陰で、自動的に学園に入れてダンスも完璧。ごめんね、頑張ってきたあなたの人生を乗っ取ってしまった」


 彼女が「可愛げのない」なんて言葉を使ったのは、私の内面まで知っているからね……。

 大好きだったヨハンを奪った私を、傷つけたがっているのね。


「……乗っ取らせてあげたのよ」


 彼女がぼそりと言う。

 

 乗っ取らせてあげた……?

 もしかして、彼女は彼女の意志で自分の人生を捨てたの……?


「自ら、身体を私に明け渡したということ?」

「そうよ! あの夜……夢を見たわ。この世界が構築される夢。いくつもの可能性が鏡のようにたくさん浮いていて……どの未来も……ヨハネス様の心はあの平民の女に奪われていた……」

「……そう」

「この世界はそうなっているって、なぜだか自然と理解できたわ。あの方の瞳の色のような美しい星から、いくつもの魂がこの世界の人間の中に飛び込んでいったのよ」


 メルルと話をしたことがある。

 この世界の成りたちについて。

 彼女は、ここを魂を癒す世界ではないかと言っていた。

 

『前世の心残りだったり、辛かったり悲しかったことをここで癒して、生まれ変わるんです。他にもこんな世界はたくさんあって、魂に合った場所へ行くのかな、と。誰かに強く想像された世界が、時間も空間も超越したような場所にたくさん存在しているのかもしれないと思っています』

 

 ――そう、言っていた。


「あの女は、人の形をした女性を受け入れていたわ。私があなたを受け入れるかどうかは……私自身に委ねられている気がした。自分が自分でなくなってしまうのも……なぜだか分かったわ」

「メルルに奪われるくらいならと思ったの?」


 どちらにせよ赤の他人に奪われてしまうくらいなら、メルルがヨハン以外を選ぶことに賭けてもよかったのに……。


「そうね……どの未来でも、ヨハネス様のお心は……。どうして平民の女のあんなに頭の悪いただ一度の言葉でそうなるのよ! 私がどれだけ努力をしてきたと思っているの……っ、勝手気ままに自由に生きてきた平民の分際で、顔が可愛いだけで教養も何もない女がどうして…………っ」


 羨ましいのね。

 勝手気ままに自由に生きてみたい気持ちを抑えつけて頑張ってきたのに……。羨ましくて羨ましくて、罵らずにはいられないのね。


 泣きながら彼女が言う。


「私の身体に入るなら、あなただと分かった。あなたの人生を見たわ。それは……おそらくあの女が他の男性を選んだ場合の……私の未来だと思ったのよ……」


 ああ……私と夫との冷え切った関係も見たのね。ということは私の男性遍歴……ことごとく他の女に奪われて振られる過去も知ったということか。


「あなたが、あの平民の女にヨハネス様の心を奪われないようにしてくれるのなら、いい気味だと思ったのよ。そうなる女性が選ばれたんだって分かっていた。あの女よりは、あんたの方がマシかなって……」


 好きな男を奪われる痛み。愛した男との会話のない生活を送る絶望。

 ――それを知っている私なら、と思ったのね。


「マシ……だった?」

「驚くほど品性のない会話でヨハネス様の心を射止めてくれたわね。あの女への興味をまるでなくすくらいに。ふざけているわ! そんなの……そんなの……!」


 自分では駄目だったと、改めて思い知らされるだけだったのかもしれない。


 彼女はどうして私と会話できているのだろう。

 

 ゲームではメルルを罵っていた。

 ここでは私に身体を明け渡したせいで、今まで私を罵ることすらできなかった。


 救われなさすぎね……このままでは。


「運が悪かっただけよ」

「……なんですって?」

「あなたの好きになった男が、たまたま女の趣味が悪かっただけ。自分の婚約者の抱えるプレッシャーや努力や傷ついている心なんて無視して、品性のない言葉一つで簡単に落ちるチョロい男だったってことよ。運が悪かったの」

「――――な」


 彼女の心をヨハンが思いやれなかったのは、この世界の前提条件で……きっと、誰のせいでもない。

 

「そんな男、忘れてしまいなさい。あなたはとっても魅力的な女性よ。教養を身につけるなんて言葉では簡単だけれど、それがどれほど大変なことかもよく分かっている。だって私、あなたの記憶を持っているもの」

「そんな男を……落とした張本人じゃない……」


 彼女の想いもまた、私は記憶している。 

 会う前のわずかな期待……関心を持たれていないことの再確認……。


 ――その恋心は自分を切り裂くナイフにしかならない。

 

 未来に夢は持てず……何も考えずにいられる道端の石ころにでもなりたいと願っていた。


 彼女の頬を涙ごとなでる。

 

「あなたとは相性の悪い相手だったってだけ。婚約者でなかったのなら、違う男性を選べたのにね。平民だったなら切り替えて他の男性も視野に入れられたかもしれない。あなたは素敵な女性よ。意思の強そうなあなたの瞳が見つめるのは、いつだって過去ではなく未来だった」

「――――!」

「幾度となく訪れる悲しみも、自分を磨くための努力へと昇華していた。塞ぎ込みたい気持ちを抑えつけてやるべきことに目を向けるのは、とても大変なこと」

「なんで……あなたが……」

「私を心ゆくまで罵っていいのよ。それは正当な行為だとお墨付きを与えてあげる。悲しみは全部吐き出してしまいなさい。理不尽よね。あんなに……あんなに頑張っていたのに」

「なんであなたが欲しかった言葉をくれるのよ……っ。許せない。まだ先があるくせに。私にはもう、何もないのに……っ」


 私を受け入れたということは、自らの命を絶つことに等しい。

 それほどまでに絶望したのだろう。


「あなたは、これからも私と共にあるのではないの?」

「そうね……あの時に願ったの。一度だけ会話をさせてって。ヨハネス様とあなたが愛し合ったとして……その先の幸せな未来まであなたが信じられる日が来たら会話をさせてって。最後に……罵らせてほしいって」


 ……私は信じたのか。その先の幸せな未来まで。無自覚だっただけに恥ずかしいわね。

 そっか、一度だけか……。


「あなたは知っているのでしょう? 私が妊娠中だったってこと。お腹の中にいた子を……失ってしまったこと」

「ええ……知っているわ」

「私があなたを、娘として産んであげるわ」

「え……ええ?」

「言ったでしょう? あなたは魅力的な女性だって。私の娘になりなさい」

「……息子だったらどうするのよ」

「たぶん私、早く結婚すると思うのよねー。娘が産まれるまで頑張るわ」

「頑張るって……やっぱり品性の欠片もないわね」


 ……何を想像したんだか。


「一緒にたくさん遊びましょう! 娘だから心配だし……お忍びをしたい時にはカムラをつけておくわ。格好いい男の子と話す機会もそれなりにつくって……両想いになりそうな子と婚約を促してしまおうかしら。楽しみね、孫の顔も見せてちょうだい」

「……まだ学生のくせに……」

「いつか、必ずその日が来るわよ」

「私には魂がなかったわ……この世界だけの住人で……生まれ変わりができるとは……」

「私が望めばできるわよ、絶対。それにね、魂が発生していたであろう星の名前は地球っていうのだけど、人数は一定ではないのよ」

「……意味が分からないけど」

「魂が行って帰ってくるだけなら、人数は大して変わらなくなっちゃうじゃない。ここから生まれる魂があってもおかしくないってことよ。ここで私の娘であることを楽しんだら、次は別の世界が始まるはずよ、きっと」

「別の……世界……」


 彼女の強張った顔が緩んでいく。


「そう。そっちでなら、ここよりは勝手気ままに自由に遊べるわよ」


 ……生まれる場所によるかもしれないけど。


「それも、いいかもしれないわね……」

「ええ。まずは私たちの娘になって、パパに思い切り甘えなさいな。いえ……振ってあげてもいいわね。抱っこさせてって言うヨハンに、パパよりもカムラの方がいいわ、なんて懲らしめてあげればいいのよ」

「あなた……ヨハネス様のことが好きなのよね……」

「ええ、大好きよ。知っているでしょう?」

「……知っているけど……」

「私に好かれていれば十分でしょう。娘にくらい振られてしまえばいいのよ」

「何よそれ……」


 彼女が笑う。最初の挑発的な笑みではなく、自然な……柔らかい笑顔だ。

 自分と同じ顔で照れくさいけれど、彼女のこんな顔を引き出させてくれる男性と幸せになってほしいと思う。


「あなたを受け入れて……、よかったわ」


 そう――、穏やかに彼女が言った。

 もし彼女に未来があるのなら……その言葉は言ってほしくない言葉だ。

 でも、もう手遅れだ。彼女は私になることを決めてしまった。戻ることはできない。


 彼女がそう思えたことを、今は喜ぼう。


「私と一緒に、幸せになりましょう」


 抱きしめると私の背中に彼女が手を回し――、


「ええ、ありがとう」


 ふわりと、彼女は私の中に溶けた。

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