第30話 研究棟の廊下で
「さっきはごめんなさい……」
「何を謝っているの? 君は何も悪いことなんて、していないよ」
相変わらず私の腰を抱いて歩いているけれど……絶対さっきので好感度が下がったと思うのよね……。
だって、駄目駄目でしょう。
愛してくれないなら死んでやる!
ってことを言ったわけよね、私……。
我ながら酷すぎる。
どう考えてもメンヘラ発言だ。相手をハラハラさせることで自分に気を持たせようとする、幼稚な発言。
撤回しないと……、私への愛が冷めてしまう。
「えっと……さっきのは本気じゃないのよ。最初に思いついたことを言っただけなの。あなたの気持ちが離れたら、ちゃんと諦めて他に楽しいことを見つけるわ」
「……簡単に諦めないでほしいんだけどね……。諦めずにいてくれた君に、感動したんだって言っただろう?」
「あ……」
そういえば、そうだったわ……。
「いいよ、君がいかに不安定なのかは理解した。つくづく夢の話を問い詰めておいてよかったよ。色々と根が深そうだ。ごちゃごちゃ考えなくてもいい。何も考えずに甘えてくれれば、僕も嬉しい」
「それなら……もう一つ甘えたことを聞いてもいい?」
「なに?」
「……さっきの私の言葉で少しは好きじゃなくなったわよね? 幼稚すぎてガッカリだなって、普通は思うわよね?」
もしそう思っていたとしても、ヨハンなら否定してくれる。それを見越した上での甘えた発言だと自覚しているのに、許されるのならと聞いてしまう。
我ながら……本当に心底酷い。
「……なるほど。だから諦める、か……。そんなことはないよ。どうやら君は、本当に僕のことが好きなようだ。安心したよ」
……そこ、まだ疑っていたのかしら。あの誕生日パーティーの最後の言葉のせいかもしれないけれど。
実はお互いに、疑い深いのかもしれない。
今日は土の曜日。
研究棟の廊下にはほとんど人はいない。
アーチ状の窓から陽が差し込む廊下を、二人でゆっくりと歩いていく。
ちらりと見上げるだけで、絵本から出てきたような美しい色彩を持つ彼がそこにいる。
透き通るような金髪、気品のある青い瞳……。
私になる前のライラは、彼を理想の王太子様として憧れていて、彼にとっての重荷だった。
今の私は……どうだろう。愛してほしいという欲求を押し付けて、違う種類の重荷になってしまってはいないだろうか。
愛されたいという気持ちは、以前のライラと変わってはいない。むしろ……強まっている。
「ねぇ……ヨハン。あなたは以前の私が苦手だったじゃない?」
「う……そ、そうだね……」
「でも結局、以前と同じ想いをあなたに抱いてしまっているのよ」
「…………」
「好きになってほしい、愛してほしい、私を見てほしい……それを感じているでしょう? それは……相変わらずあなたにとって、重荷ではないのかしら」
「僕は君を好きになったんだよ。同じ想いでも重荷にはならない。嬉しいだけだ」
「それに……、前以上に不満も抱いてしまうのよ」
「ええ!? 早く言ってよ。それはどんな?」
ピタッと彼が止まって私から身体を離すと、頬をそっと包み込まれた。そこは光の差す窓の前で……、神に導かれているような錯覚に陥るほどの神々しさを感じる。
こんなに綺麗じゃなくてもいいのに……気後れしてしまう。
「ここ……今、人がいないわよね」
「あ、ああ。いないけど」
彼はもう、メルルにはきっと惚れない。
私に夫がいたことも知られている。
それなら……いいよね?
私、まだかろうじて二十代だったし……。
おかしいって、思われないよね?
彼の胸板近くの制服を、きゅっと掴む。
「二人きりになって誰もいないのなら……もっとキスしてほしいな」
彼は驚いたように目を見開いてフッと笑うと、愛おしい人を見るように目を細めて――――…………、
時が、止まる。
「一過性の熱では……ない?」
触れたばかりの唇で、彼がそんなことを言う。
「私だって、あなたをそう疑っているわ」
次は、私から唇を合わせる。
「もう少しだけ、我慢をしようと思ったんだ」
「我慢なんてしないでって言ったのに」
「あの場で?」
「あの場はちょっと……」
最初に彼を悩殺しようとした、あの日。
普通に考えれば、『我慢しないで』のカードはそういうことだ。
「で、ヨハンはまだ何かを、我慢しているのかしら?」
「ああ、もう少し月日が経つのを待とうかと思った」
「何をか分からないけれど、人生何があるか分からないんだから。したいことはさっさとした方がいいわよ」
「……説得力がありすぎるな」
私はおそらく前の世界で死んでからここに来た。彼も……同じことを思い出したのね。
「それならもう、我慢はやめようかな」
「ええ、そうしてちょうだい」
「ここまでするほど好きじゃなかったとか、思わないでくれよ」
「思わないわよ。私はあの場で『我慢しないで』のカードを選んだ女よ」
「はは、そういえばそうか」
「そうなのよ」
何度かの、結婚の誓いのような口づけの後……。
私の全てを絡め取っていくような深いキスに、身体中が震わされる。全部全部持っていかれて……何も残らないほどに、彼のものになってしまいそうだ。
身体中が熱くなっていく。
彼が我慢をしないと言うのなら、このキスが――、毎日私に降ってくるのだろうか。
「まだ、ここでする?」
キスの合間に彼が囁く。
「……この前の芝生にでも、行こうかしら」
「いいよ。まだしたいって、そういうことだよね」
「分かっているのなら聞かないでくれるかしら」
手をつないで、研究棟を出る。
色鮮やかな花壇を横目に、ベンチに座る学生たちがこちらを見るたびに早く目をそらしてと祈りながら森へと向かう。絶対に……顔が赤い。
ヨハンがこちらを見るだけでも気恥ずかしい。……何か話そう。
「今思うと、本当にヨハンが夢のことを問い詰めてくれてよかったわ……」
「そうだね。隠されていたら、こんなに甘えてはくれなかっただろう」
よく分かっているわね……。
あの日全てを話すまでは、夫がいたという罪悪感を抱えながらヨハンと会話をしていた。
隠し事があるかないかの違いは……大きい。
「でも、あの時はずっと迷っていた。君に嫌われはしないかとね」
そういえば、尋ねられたわね。
千年の恋が冷める理由に、不信に感じたことを問い詰められたら冷める? ――って。
「あの日は、私を問い詰めるのが目的だと思っていたわ」
「迷っていたんだよ」
だから、ワインも使ったのか……。
私のあちこちにキスをしながら聞いていたのも、嫌われていないか確認のためだったのかもしれない。
思った以上に彼は慎重で……、そして彼の言う通り臆病なのかな。
「でも君は、夢を見て僕を悩殺すると決めてくれた。だから、勇気を出して夢の内容を問い詰めたんだ」
「……こんなに近くにいるのに、分からないことだらけね」
「そうだよ。もっと君のことが知りたい。一緒にこれから、僕たちの歴史を作っていこう」
「その歴史の中で、私はいつまで悩殺って言葉を使われ続けるのかしら。かなり飽きてきたんだけど……」
「ああ、きっと墓に入るまで使うと思うよ」
「そこまで!? そんなに気に入ったの!?」
「ああ。ライラの名言集みたいな本でも作って、書いておきたいな」
「それは本当にやめて」
四年間は長いようで短い。
大学生活を前世で味わった私は、それをよく知っている。
こんなにも甘酸っぱい空気にふわふわしていられるのも、責任が何もない今だけの贅沢だ。
「学園にいる間は、ずっと側にいてね、ヨハン」
「もちろんだよ。ずっと一緒にいよう、僕のライラ」
馬鹿みたいに浮かれた台詞。一緒に馬鹿になってくれる相手がいるのなら、そんな言葉を交わすのも悪くない。
ヨハンが四六時中あま〜い台詞を吐くのは、一緒に馬鹿になってほしいからかしら? 次からは、上回るような甘い台詞でも返してやろうかな。
どんな顔をするか見ものね。
――四年間で、私の頭はどれだけとろけてしまうのかしらね。気が付くと、恥ずかしいことしか考えていないわ。
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