24話 水嶋静乃の初恋②
「おい? どうした、ケガしてんのか?」
「い、いや……なんか、安心したら、腰、ぬけちゃったみたいで……」
立ち上がろうとしても、うまく力が入らない。
一向に言うことを聞いてくれない自分の体に、思わず乾いた笑いがこみ上げた。
「は、はは……ごめん。ちょっと休めば、歩けると思うから」
「そうか。んじゃあ、それまで俺も待っててやるよ」
「ありがとう。正直ひとりだと心細かったから、たすか……っ!?」
そこまで言いかけて、私はブルブルと身震いする。
外で過ごしやすいとはいえ、さすがに肌寒くなってきている季節。冷たい土の地面に座り込んでしまったことも災いしてか、急激にトイレに行きたくなってしまったのだ。
「あ、あの……」
「うん? どうした? もう歩けるか?」
「いや、そうじゃなくて……僕、トイレ行きたくなっちゃって……」
「トイレ? トイレならすぐそこの道を行けば……って、そうか。お前いま立てないんだっけ」
「う、うん」
必死に尿意を我慢しながらコクコクと頷くと、男の子は「しょうがねーな」と言って私のそばにしゃがみこんだ。
「ほら、肩貸してやるから」
「え?」
「いいから掴まれって。漏らしても知らないぞ」
促されて、私はおずおずと男の子の肩に手を回した。
私が体を預けたのを確認して、男の子も私の肩に手を回して立ち上がる。
「うおっ、お前なかなか背高いな。まあいいや、それじゃトイレまでレッツゴー!」
「ありがとう。……ごめんね、僕、助けてもらってばっかりで……」
肩を貸してもらってなんとか歩みを進めながら、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
酔っぱらいのおじさんから
どちらかと言えば、今まで誰かの世話を焼いたり助けたりするのは私の方だった。
喧嘩している子たちがいたら仲裁に入ったり、泣いている子がいれば話を聞いて慰めたり。なまじ大人っぽい雰囲気だったからか、悩み事を相談されることも多かった。
だから、こんな風に誰かに、しかも同年代の男の子に世話を焼いてもらうなんて初めてのことで、なんだか新鮮だった。
「しっかし、お前も変わってるよなぁ」
トイレまでの道すがら、不意に男の子がそんなことを言ってきた。
キミだってかなり変わってると思うけど、という言葉はぐっと飲み込んで、私は彼に聞き返す。
「変わってるって、どういうところが?」
「だってお前、女子なのに自分のこと『僕』とか言ってるしさ」
「えっ……?」
正直、びっくりした。
私はその時まで自分のことを女子だと言ったことはなかったし、服装だってシャツにズボンという中性的な恰好だ。
当時は今みたいに体の凹凸が目立つわけでもなかったし、髪型もショートヘアー。だから、初めて会う人には大抵男の子だと思われていた。
なのに、彼は少しも迷う素振りを見せずに、私を女の子だと見抜いたのだ。
「なんで……僕が女の子だってわかったの?」
不思議に思った私がそう聞いてみると、帰ってきた答えはごくシンプルなものだった。
「はぁ? そんなの見りゃわかるじゃん」
さも当たり前のことみたいに、男の子はあっけらかんとそう言った。
「…………ふふ、ふふふっ」
「な、なんだよ。俺なんか変なこと言ったか?」
「ううん。……変じゃないよ」
「かっこいい」って言われるのは嫌いじゃない。
男の子みたいに扱われるのも不快に思ったことはない。
だけど、やっぱり心のどこかでは望んでいたのかもしれない。ごく自然に、女の子として扱ってもらえることを。
一目見ただけで自分の「本音」を見抜いてくれたような気がして、だから、それがなんだかとても嬉しかったのだ。
「さて、と。着いたぞ。さすがに中には1人で行ってくれな?」
「うん、ありがとう」
そうこうしている内に、木々に囲まれるようにして建つ芝生広場近くの公衆トイレまでたどり着いた。その頃には体も動くようになっていて、私は落ち葉を踏みしめながらトイレへと向かう。
「あの……僕が入ってる間なんだけど……」
それでも、やっぱりまだ1人になるのは心細くて、私は恐る恐る男の子のほうを振り返る。
一瞬きょとんとした顔を見せた男の子は、けれどすぐに私の言わんとしていることを察したのか
「わかった、わかった。お前が出てくるまでここで待っててやるから」
「う、うん。待っててね? ……勝手にどこか行かないでね? 絶対だよ?」
「行かないっての。ほら、早く行ってこい」
男の子に念を押して、私は女子トイレへと入る。
トイレは仕切りによって外からは見えないようになっているけど、壁と屋根の間に隙間があるので、声や音は丸聞こえだ。
「ねぇ、そこにいる?」
「おう。いるぞ」
「……ねぇ、待っててくれてる?」
「待ってる、待ってる」
「…………ねぇ、まだいてくれてるよね?」
「だからいるっつーの!」
なんてやり取りを何回か繰り返しながら、無事に用を足した私は公衆トイレの外へ出た。
男の子はトイレ近くの木に腕を組んで寄りかかり、少し呆れた顔を浮かべていた。
「お前なー、何回『そこにいる?』って聞くんだよ?」
「ごめん、ごめん。……でも、待っててくれてありがとう」
「まぁいいけどなー」
そう言って、男の子はすぐ目の前の芝生広場を指差した。
「ここまで来れば、あとはもう1人でも大丈夫だろ? 大人もいっぱいいるしな。俺もそろそろ戻らないといけないから、ここでバイバイだな」
「えっ……う、うん……」
そう頷いたものの……これでお別れだと思うと、なんだか妙に寂しさを覚える自分がいた。
怪我なんかしていないはずなのに、不思議と胸の辺りが痛む。
もう少しだけ彼と一緒にいたい。
もっと彼のことを知りたい。
そんな気持ちを抱いたのは、生まれて初めてのことだった。
「じゃーな! もう変なオッサンに絡まれたりするなよ!」
「あっ……ま、待って!」
だから、気付けば走り去ろうとした彼の背中に向かって声をかけていた。
「今日は本当にありがとう! それで、その……また、今日みたいに──」
「お~い、颯太~! どこにいるの~?」
と、私の言葉を遮るようにして、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
「やべ、樋口が呼んでる! さすがにもう戻らないと先生に怒られるな」
「ね、ねぇ!」
「うん? なんだよ、俺もう行かないとなんだけど」
足踏みをしながら振り返る男の子に、私は咄嗟に問いかけた。
「また、どこかで会えるかなっ?」
精一杯の勇気を出した私の言葉に、男の子は一瞬驚いた表情を浮かべると。
「──フッ」
それから不敵に笑ったかと思えば、ポケットの中から取り出した何かを私に向かって放り投げた。
「わわっ、と。これって……笛?」
手に取ったそれを見てみると、水色を基調としたコスチュームとペンギンっぽいマスクに身を包んだキャラクターのイラストが描かれた、小さなホイッスルだった。
「そいつは『Pホイッスル』! また今日みたいに困ったことがあれば、そいつを空に向かって思いっきり吹け! そいつの音が届く範囲に俺がいたら、駆けつけてやる! そうしたらまた会えるだろ?」
ニッと白い歯を見せて、太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべた彼は。
「では、さらばだ少女よ! 縁があったらまた会おう!」
最後の最後までヒーロー気取りのセリフを口にして、今度こそ振り返ることなく走っていってしまう。
後に残された私は、不思議な胸の痛みがどんどん増していくのを感じながら、手のひらの中のホイッスルをギュッと握りしめた。
「……ソータくん、か」
※ ※ ※ ※
「……つまり、好きな人ができた、ってこと?」
「うん……多分、そう」
遠足から1週間ほどが経ったある日のお昼休み。
私はあの日起きた出来事と、自分が抱いた初めての「感情」についてをかいつまんで江奈ちゃんに打ち明けた。
「それって、どこの学校の子だったの?」
「わからない。でも、その子は僕が困っていたところを助けてくれたんだ。『ヒーローとして当然のことをしたまでだ』なんて言ってさ」
「ヒーロー?」
「……そうだね。僕にとっては間違いなくヒーローだった」
実際にその現場を目の当たりにしていない江奈ちゃんには、あまり想像がつかないようだったけれど。
それでも江奈ちゃんは「よかったね」と言ってくれた。
「でも、静乃ちゃんに好きな人ができたのは、なんだか嬉しいな。私、応援するよ。静乃ちゃんがいつかまたその男の子と会えますようにって、お祈りしておくね」
「ふふ、ありがとう。じゃあ僕も、早く江奈ちゃんにも好きな人ができますように、ってお祈りしとく」
「え、えぇ? わわ、私はいいよ~……!」
にわかに顔を赤らめてブンブンと首を振る江奈ちゃん。
微笑ましい親友の姿に、私もクスクスと笑って肩を揺らした。
恋をすると人は変わる、なんてよく言うけれど。
ともかくそれからの私はと言えば、まさにその良い例だったと思う。
「なぁなぁ水嶋くん! 今日さ、放課後にみんなで市民体育館行くんだけど、水嶋くんも来るよな?」
「あ~……ごめんね。私、今日は用事があるから。また今度ね」
「えっ!? お、おう……そう、なんだ?」
好きな男の子ができたことで、曖昧にしていた自分の中の「女の子らしさ」みたいなものを、子供なりに磨こうとしたんだと思う。
だから私は、まず自分のことを「僕」ではなく「私」と呼んでみることから始めてみた。
もちろん、最初はなんだか照れ臭かったし、クラスメイトの皆も驚いたような態度だった。
それでも思いのほかすんなりと定着し、数日も経てばまたいつも通りの日常に戻っていた。まぁ、考えてみれば女の子の私が自分のことを「私」と言っても何も不自然なことはないし、当然といえば当然だったかもしれない。
さすがに学校にまで着ていく勇気はなかったけど、休みの日には目いっぱい女の子らしい服を着て出かけてみたり、他にも料理やお菓子作りの初歩的な練習をしてみたりもした。
そうして、ささやかながらも女子力向上に精を出す日々が過ぎていき。
「ごめんね、静乃ちゃん。本当は、私も一緒に女学院に行けたらよかったんだけど……私、それだけは残念だよ」
「そんな顔しないでよ、江奈ちゃん。もう二度と会えなくなるわけでもないんだし」
気付けば私たちは、あっという間に小学校を卒業する時期を迎えていた。
「そうだけど……じゃあせめて、私の一番のお気に入りの『ペロペロさん』、あげる。そうすれば、静乃ちゃんも私のこと、覚えていてくれるだろうし」
「これ、江奈ちゃんが集めてるストラップでしょ? 大事なものなのにいいの? 私、一度貰ったものはよっぽどじゃないと返さないよ?」
「あぅ……や、やっぱりこれじゃなくて、別のものを……」
「いいって、いいって。違う学校って言っても、同じ市内なんだからさ。会おうと思えばいつでも会えるし、スマホで連絡も取れるし、江奈ちゃんのこと忘れる暇なんてないよ。だから、ね?」
両親の言いつけで人一倍勉強して中学受験に臨んでいた江奈ちゃんは、結局第一志望だった聖エルサ女学院ではなく、市内の別の私立に行くことになったらしかった。
「……うん、そうだね。中学生になっても、高校生になっても、また仲良くしてくれる?」
「もちろん。親友だもんね」
一方の私はといえば、これまた親の言いつけで聖エルサ女学院へと進学することになった。
『静乃、あなたには将来的にうちの事務所所属のモデルとして働いてもらうつもりよ。今のうちから業界や現場の雰囲気に慣れておきなさい。いいわね?』
加えて、当時設立したばかりの芸能事務所でさっそく敏腕社長として腕を鳴らしていたお母さんの意向で、私は中学進学とともにファッション誌モデルの卵として活動することも決まっていた。
半ば無理やり決められていたから驚いた部分もあるけれど、これもちょうどいい機会だと思うことにした。
いつかまた、あの小さくも勇敢なヒーローと再会した時、彼が振り向いてくれるような素敵な女の子になっていたい。
モデルとしての活動を続けていけば、その願いに大きく近づけると思った。それに、私が有名になれば、彼もすぐに私のことを見つけてくれると思ったから。
そして、彼ともう一度会うことができた、その時には。
その時こそ彼に、私のこの想いを──。
(……待っててね、ソータくん)
いざモデルとしての活動を始めてみたら、今の「Sizu」へと繋がるボーイッシュなスタイルがウケてしまったのは、ちょっと誤算だったけれど。
それでも、いつか彼の隣に立つことができるヒロインになるために、私はこれからの青春を捧げようと決めたのだ。
──なのに。
【静乃ちゃん。私ね、恋人ができたんです】
これを運命のイタズラと言わずしてなんと言うのだろうか。
学業にモデル活動にと忙しい中学時代もいよいよ終わりを迎えようとしていた、中学三年生のある冬の日。
江奈ちゃんから届いたそんなメッセージに添えられていた1枚の写真に、私は目の前が真っ暗になってしまった。
【同じ学校の
送られてきたのは、江奈ちゃんと「恋人」とのツーショットだった。
すっかり体つきも大人になって、なんだか昔のような太陽みたいに明るいオーラはなくなってしまっていたけれど。
少しクセのある黒髪に、ちょっと怖いけどどことなく愛嬌を感じられる三白眼気味の目つきは、あの頃とちっとも変わっていない。
「…………ソータ、くん?」
間違いない。
江奈ちゃんの隣で幸せそうな顔をして笑っていたその男の子は、私が再び会う日を夢にまで見ていた、私のヒーローだった。
(なんで…………なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんで……?)
「…………なんでよ」
どうして、よりにもよって江奈ちゃんが選んだのが彼なのか。
江奈ちゃんは、彼が私の「好きな男の子」であることは知らない。
だから……とても受け入れがたいことだけれど、2人は私のまったく知らない場所で出会い、私とはまるで関係ない経緯で、偶然にも恋人同士になったのだ。
「……こんなのって……あんまりだよ」
頭がどうにかなりそうだった。
彼は何も悪くない。そして、江奈ちゃんも何も悪くない。
それなのに、私は初恋の男の子と親友にいっぺんに裏切られたような気がして、ただただ愕然とするしかなかった。
だけど。
「…………ダメ」
それで彼を諦めることができるほど、親友のために涙を呑んで身を引くほど、私は潔い人間ではなかったらしい。
「ソータくんは……私のヒーローなんだから」
自分がこれほど執着心の強い女の子だったことに自分でも驚きながら、気付いた時には私は女学院の制服を脱ぎ捨てていた。
もう遅いかもしれないけれど。もう自分にはどうしようもできないかもしれないけれど。
それでも、とにかく少しでも彼の近くに行かなければと思った。
だから。
「お母さん。私──女学院の高等部に行くの、やめる」
今までなんだかんだ親の言いなりに生きてきた私にとって。
きっとそれが、人生で初めてのワガママだった。
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