19話 本心

「殴り合いなら俺が相手になってやる!」

 

 今まさに江奈ちゃんを殴ろうとしていたチャラ男の前に躍り出て、驚く江奈ちゃんを背にそう俺は柄にもなくそんな啖呵を切っていた。


 だから、きっとそのままストリートファイトに突入するだろうなと覚悟していた。


 覚悟していた、のだが。


「いきなり出てきてマジなんなんだよお前……ちっ、あ~めんどくせぇ」


 ところがどっこい、さにあらず。


「キモいヒーロー気取り野郎のせいですっかり萎えちまったぜ。もういいわ、お前ら。好きにしやがれ」


 思いのほかあっさりと引き下がったチャラ男はひどく面倒くさそうにそう言うなり、江奈ちゃんをほっぽり出してさっさと一人で帰ってしまったのだ。


「ええっ、と……とりあえず、事なきは得た、のかな?」


 荒事にならずに済んだのは万々歳だが、やけに引き際のいいチャラ男になんだかすっかり拍子抜けしてしまって、俺はポカンとやっこさんの背中を見送るばかりだった。


 なんだ、あいつ? 割って入った俺が言うのもなんだけど、急に現れた見知らぬ男に彼女を預けてさっさと帰っちまうとは、薄情なやつ。


「……あの、佐久原くん?」


 ほっと胸を撫で下ろしていた俺は、けれど背後から呼ばわれてハッとする。


 そうだ。江奈ちゃんを助けに飛び出してきたはいいけど、色々と説明をすっ飛ばしちゃってたんだよな……。


「あ~、えっと……ごめん、里森さん! 急に俺なんかがしゃしゃり出てきて、びっくりさせちゃったよね?」

「い、いえ……それより、どうして佐久原くんがここに?」

「それは、その……き、今日は、たまたま横須賀に用事があってさ! それで、帰り際に里森さんが男の人と歩いてるのを見かけたから……ちょっと、気になって」


 俺が咄嗟とっさにでっち上げた経緯に、それでも江奈ちゃんは「なるほど」と納得したようだった。


 本当に素直で良い子で……それだけに、危なっかしいんだよなぁ。


「そしたら、里森さんが殴られそうになってたから……つい放っておけなくて」

「そう、だったんですね」

「後をつけるようなことしてごめん! それに今だって、もしかしたら余計なお世話だったかもしれない……勝手なことばっかりして、ごめん。本当に」


 俺は深々と頭を下げて、精一杯の謝罪の言葉を江奈ちゃんに告げた。


 触らぬ神に祟りなし。

 自分の正義感だけに従って誰かを助けようとするのは、ヒーローではなくただのお節介野郎。


 そんなことは百も承知だったはずなのに、当の俺自身がその「お節介野郎」になるなんて。冷静になって思い返せば、まったく笑ってしまう話だ。


(……江奈ちゃん、呆れてるだろうな)


 恐る恐る顔を上げて、俺は江奈ちゃんの二の句を待つ。


 しかし、俺の心配とは裏腹に、江奈ちゃんの表情には非難や怒りの色はなかった。


「そんな……謝らないでください。佐久原くんが来てくれなければ、きっとひどいことになっていたと思いますから」


 俺を責めるどころか、江奈ちゃんはそんな慈悲じひ深いことを言って頭をあげるように促してくる。

 

 さっき、水嶋は俺のことを何と言っていたか。誰よりも優しい人、だったか?


 とんでもない。俺なんかよりも江奈ちゃんの方が、圧倒的にその評価に相応ふさわしい。


 こんな状況で言うのもなんだが、やっぱりマジで天使みたいな女の子だ。むしろ天使そのものと言ってもいいね。うん。


(ただ……だからこそ、分からない)


 こんな優しくて、謙虚で、清廉潔白な女の子である江奈ちゃんが。


 俺みたいな陰キャオタクはともかく、あのスパダリでカリスマなイケメン美少女モデルである水嶋まで差し置いて、だ。


 あんな一山いくらみたいなチャラ男に浮気をするなんてことが、本当にあるんだろうか?


(江奈ちゃんがそこまで節操せっそうがない性質たちだなんて、少なくとも俺は思えないんだけど……)


 そこまで考えたところで、俺はほとんど無意識のうちに口を開いていた。


「あ、あのさ里森さん。それで……」


 一体、あのチャラ男とはどういう関係なのか。いつどこで知り合って、どういう経緯で今日一緒に出掛けることになったのか。


 よっぽどそう聞こうかとも思ったのだが。


「いや、ごめん……なんでもない」


 現在の恋人である水嶋ならいざ知らず、もはや元カレどころかただの学校の同級生に過ぎない俺がそれを聞くのはやっぱりおかどちがいな気がして、やめた。


「……もうすぐそこだけど、せめて駅まで送るよ。ああいや、もちろん迷惑じゃなければ、だけど」


 仕切り直すように頭を振って、俺は江奈ちゃんに提案する。


「いいんですか? ですが佐久原くん、見たところ傘をお持ちでないようですが……」

「あ~、平気平気。俺はちょっとくらいなら濡れても大丈夫だから」

「いえ、そういうわけにも……あ、それなら」


 髪の先から水を滴らせながらさっさと歩き出そうとする俺に、江奈ちゃんが手に持っていた傘を差し出してくる。


「これを、二人で使いませんか? 駅まで行くだけなら、十分だと思います」

「えっ?」


 そ、それってつまり、いわゆる相合傘ってやつですか!?


「い、いいの?」

「はい。私を送るために雨に濡れさせてしまうのも申し訳ありませんし」

「あ~……」


 降ってわいた相合傘イベントに若干緊張してしまったが、江奈ちゃんの方は特に意識していないご様子。あくまで人として常識的な判断をしただけ、という感じだ。


 ……うん。分かってた。分かってはいたけど、やっぱりこの事務的な対応はちょっと寂しいです、はい。


「えっと……じゃあ、行こうか?」

「はい」


 江奈ちゃんの傘を俺がさし、そうして二人並んで歩き出す。


 傘のサイズが普通よりも小さめだったため、俺は江奈ちゃんの肩が濡れないように、かなり彼女寄りになるように傘を傾けていた。


 それでも、心なしか江奈ちゃんが俺の方へ距離を詰めてきている気がしたのは多分、俺の脳が見せた都合の良い錯覚に違いない。


 そうして並んで歩き出した俺たちは、特に何を話すでもなくただただ黙って駅までの道のりを進んでいき。


 ほどなくして駅に辿り着いたところで、別れの挨拶をするためにようやく口を開いた。


「送っていただいて、ありがとうございます。それに……さっきのことも。今日は本当に助かりました」

「いやいや! 俺なんかホント、大したことはしてないしさ。とにかく里森さんが無事で何よりだよ。はは……」

「…………」

「…………」


 二言、三言交わしたところで、けれど俺たちの間には気まずい沈黙が流れてしまう。


 話したい事ならいっぱいある。今日は何をしに横須賀まで来たのか、とか、あのチャラ男は結局江奈ちゃんの何だったのか、とか。


 だけど、残念ながらそのどれもが今の俺には知る資格がないことで、だから何も聞けないことが歯がゆかった。


 こうして黙っているところを見ると、きっと江奈ちゃんも、今日のことについて俺に話すことは何もないと思っているんだろう。


 なら、余計に俺から根掘り葉掘り聞きだすのは筋違いってもんだ。


「……それでは、そろそろ電車が来ますので」

「え? あ、ああ、そうだね……」


 やがて沈黙を切り裂いて、江奈ちゃんがペコリと頭を下げる。


 どれだけ服装が変わっても、その楚々そそとして丁寧な所作は少しも変わっていない。少なくとも、恋人をとっかえひっかえして遊んでいるような女の子のそれとは、俺はやっぱり思えなかった。


(本当に、今までの江奈ちゃんはだったのか……?)


 きびすを返して駅の改札口へと向かっていく江奈ちゃん。


 遠ざかっていく彼女の背を見つめながら、俺の脳裏にふと過ったのは、いつかの屋上での出来事だった。


『私──


 あの時、そう言って俺に口づけ──だったと思う──をしたのは、一体どういう意図でのことだったんだろうか。


 何か俺に伝えたい、秘めた思いでもあるのだろうか。はたまた、それすらも彼女の本当の姿ではなかったというのだろうか。


 ──江奈ちゃんの本心が知りたい。


 今この瞬間ほど、そう強く感じたことはなくて。


「……あ、あのっ、!」


 気付いた時には、俺の口から彼女の名前が飛び出していた。


 振り返る江奈ちゃんに向けて、絞り出すように言葉を繋げようとして。


「あ、その……ごめん、なんでもない。帰り道、気を付けて」


 けれど、やはりそれすらももう俺には知る資格がないことだと思い直し、結局はそんな当たり障りのないセリフしか出てこなかった。


 肩を竦めて目を伏せる俺を、江奈ちゃんはしばらくの間じっと見つめて。


「…………ごめんなさい」


 最後に短くそれだけ言い残すと、足早に改札口の雑踏の中へと消えて行ってしまった。


(ごめんなさい、か……)


 それが一体なにに対しての謝罪なのかも、今の俺には推測することすらできなかった。


 ああ、俺ってほんと、江奈ちゃんのことを何も分かってないんだな……そりゃあ、フラれるのも当然って話だよな。


「あいつの言う通り……みじめな思いをするだけだったなぁ」


 駅構内の天井を力なく見上げながら、俺は自嘲した。


「……って、やべっ。そういえば、その水嶋のこと、ほったらかしだった」


 咄嗟だったとはいえ、一応は「彼女」のことを置き去りにして来ちゃったのはマズかったよな。


 これじゃあ、俺もさっきのパリピ男のことをとやかく言えないじゃんか。


「まぁあいつ傘持ってるし、心配ないと思うけ……ど……?」


 駅を出て水嶋の所まで戻ろうとした俺は、しかし、振り返った先の光景に思わずギョッとする。


「うぉっ……み、水嶋……?」


 いつの間に追いかけて来ていたのか、水嶋は俺のすぐ後ろ、ちょうど駅の屋根がある部分のすぐ外の辺りで立っていた。


 しかし、どういうわけか今の彼女はさっきまで差していたはずの自分の傘をすっかり丸めてしまい、手で持っているだけ。


 必然、髪の毛から服から全身が雨でずぶ濡れになってしまっていたのだ。


「お、お前、何やってるんだ? そんな格好、風邪ひいちまうぞ……?」


 俺は慌てて手招きをするが、水嶋はただじっと黙って立ち尽くしたまま、屋根の下まで入ってこようとしない。


 濡れた前髪で隠れてしまっているせいで表情もよく見えないし、無言なことも相まって、それがなんだか不気味だった。


「お、怒ってる、のか……? その、置いていったのは悪かったよ、ごめん。あの時は……」


 きっと静止の声も聞かずに勝手に飛び出し、置き去りにしたことに腹を立てているんだろう。


 そう考えた俺は、おそるおそる謝罪と弁解を口にしようとして……。


 ──ガバッ。


「んんんんんんんんっ!?」


 しかし、次に水嶋がとった行動は、俺を慌てふためいて瞠目させるには、十分すぎるものだった。


(な、な、な……!?)


 声を出すこともできず、俺はさながら金縛りにでもあったかのように身動きをとることができずにいた。


 それもそのはずだ。だって水嶋は、いきなり俺のふところに飛び込んで抱き着いてきたかと思ったら、そのまま有無を言わさず唇を重ねてきたんだから。


(こ、こいつ、いきなり何のつもりだ……!?)


 慌てて引きはがそうとするのだが、水嶋は全身全霊の力で俺に密着し、絶対に離れようとしない。そしてその間も、けして口付けを止めようとはしなかった。


「……んっ……はぁう……じゅるっ……」

「んんっ……ちょ、待っ……むぐっ……!」

「ぇあ……ひゅむ……んはぁ……はむっ……」


 ……いや、それはもう、「口付け」とか「キス」とかいう生易なまやさしいものじゃない。


 今日一日の清楚清純ぶりが嘘みたいに、捕らえた獲物をむさぼる捕食者のように、骨のずいまでしゃぶり尽くそうとする獣のように。


 水嶋はただひたすらに俺の唇をねぶっていた。ねぶり続けていた。


(お、おい! こいつ、舌まで……!?)


 降りしきる雨の音に交じって、水嶋の荒い息遣いと、お互いの粘膜がなまめかしくこすれ合う音が鼓膜を刺激する。


(ま、まずい……意識が……)


 そうして、実に数十秒ほどにも渡って唇を重ね、いよいよ俺の理性も宇宙の彼方にぶっ飛びそうになったところで。


「………ぷは」


 ようやく拘束を解いた水嶋が、1歩、2歩と後ずさった。


 濡れた前髪をかきあげて、その向こうから現れたエメラルドの瞳で、じっと俺を見つめてくる。


「み、水嶋……?」


 真意はまったくわからない。

 それでも、目の前の少女が何かただならぬ様子であることだけは理解して、俺はおそるおそる声を掛ける。


「…………好き」

「え?」

「……好き、好き、好き好き好き好き好き。大好き。世界で一番キミのことが好き。本当は『好き』なんて二文字だけで表すことなんてできないくらい……私は、颯太のことが好き」

「みず、しま……?」


 飄々としていて、こっちがどれだけ目を凝らそうとまるで本心を見せようとしない普段の彼女からは想像もできないほどに、むき出しの感情を見せてそう告げてくる水嶋。


「いつもキミのこと騙したり、罠にハメたり、嘘を吐くこともあったから、もしかしたら信じてもらえないかもしれないけど……私、本気だよ? 本当に、颯太のことが好きなんだ。心から」


 穏やかに微笑んで、けれどどこかすがるような目をしながら、水嶋がそう言ってくるものだから。


「いきなりどういうつもりなんだ」とか、「つまり何を言いたいんだ」とか、そんな茶々を入れる気も起きずに、俺はただただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


「……あはは、ごめんね。急にこんなこと言われて、訳が分からないよね」


 やがて、少しだけいつもの調子に戻ったらしい水嶋が、再びツカツカと俺の方へ近づいてくる。


「でも……とにかく今は、伝えておきたかった。伝えておかなきゃいけないと思った。私が、どれだけ颯太のことを想っているのか、ってことをさ」

「それ、は……」


 正直、今は頭が混乱していて、ロクに考えもまとまらない。


 それでも、ひとつだけはっきりとわかったことがあった。


 いや……俺はもうきっと、いつかこいつが命がけで俺を庇ってくれた時から、薄々分かっていたんだろう。


 ずっと誤魔化していたけれど。

 ずっと目を逸らしていたけれど。


「颯太、私はね──キミの恋人になりたいんだ」


 俺の耳元に顔を近づけ、水嶋が囁くように呟いたその言葉は。やっぱり紛れもなく、彼女の本心なんだということを。


 理由も経緯もいまだにわからないけれど。


 どうやらこの水嶋静乃という少女が本気で自分のことを好きであるらしいことだけは。


 筋金すじがねの入ったひねくれ者である俺でも、さすがに認めざるを得ないようだった。


「今日で『勝負』の期間も終わりだね」


 するりと俺の脇を通り過ぎた水嶋が、そのまま首だけをこちらに向けて改札口へと歩いていく。


「明日さ、待ってるから──、聞かせてね」


 最後にそれだけ言い残し、水嶋は人ごみにまぎれて煙のように去ってしまった。

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