34話 クリティカルヒット
「うっ……!」
「水嶋っ!」
たまらず顔を押さえて倒れ込む水嶋。
すぐ後ろに立っていた俺は、咄嗟に彼女の体を支えるように抱き留めた。
「み、水嶋!? おい、大丈夫かっ!?」
場所が場所だっただけに目でもやられたかと思い、俺は一気に血の気が引く。
慌てて傷の具合を確認し、しかし、幸いナイフは額の生え際辺りの皮膚を薄く裂いただけのようだった。
うっすらと鮮血は滲んでいるが、精々ノラ猫に引っかかれた程度の切り傷だ。まだ体にダメージが残っていたせいで、奴もうまく狙いが定まらなかったんだろう。
それでも、意図せず水嶋に傷を負わせたことで、にわかに怖気づいてしまったらしい。
愕然とした表情で血の付いたナイフを取り落としたストーカー男は、次には「ち、違う! 僕のせいじゃない!」などと叫び、ぎこちない足取りで一目散に逃げ去ってしまった。
「あっ! おい待て! ……くっ」
俺は慌てて追いかけようとして、けれど今は水嶋の手当てをするのが先決だと思い直す。
傷は浅いが、早く消毒して止血するに越したことはないだろう。
あとはそうだ。警察とかにも電話しといた方がいいよな。
「水嶋、大丈夫か? 立てるか?」
「う、うん……平気。大したことないよ」
「大アリだ、馬鹿野郎!」
俺が語気を強めると、水嶋がビクッと肩を震わせた。
パチパチと目を瞬かせ、その度に彼女のエメラルドのような瞳が見え隠れする。
「……颯太……怒って、る?」
親に叱られた子供みたいに、水嶋は恐る恐るといった様子で俺の顔を見上げる。
これ以上は無駄に怯えさせるのも忍びなかったので、俺は声のボリュームを落として続けた。
「ああ、怒ってる。めちゃくちゃ怒ってるよ」
「それって……私が不用心だった、から? イヤホンしてて、全然あの人に気付けなかったし」
「それもそうだけど、違う。俺は『逃げろ』って言ったはずだ。なのに……なんでお前、あんな無茶なことしたんだよ。軽傷で済んだから良かったものの、一歩間違えれば取り返しのつかないことになってたかもしれないんだぞ?」
俺が詰め寄ると、水嶋はしばらくの間うつむいて。
「……だって」
けれど、次にはいたって真剣な眼差しで言ってのけた。
「私が傷付くより、颯太が傷付く方が何倍も嫌だから」
水嶋の目は、本気だった。
いつもムカつくくらい飄々として、霞のように捉えどころがなくて、こっちがどれだけ目を凝らそうとちっとも本心なんか見せようとしないのに。
今の彼女の目には、ただの一片も嘘偽りが感じられなかった。
だからもう、俺はそれ以上、水嶋を叱りつける気にはなれなかった。
代わりに胸の中に渦巻いたのは、ただただ「なぜ」という疑問だった。
「……なんでだよ」
本当に訳が分からない。
お前、さっき自分で言ってたじゃんか。
顔はモデルにとっての商売道具だ、って。傷つかないようにするのが「プロ」だって。
そんな大事なものに修復不可能な傷がつくかもしれないって分かってて、それなのに迷わずそれを盾にして俺を庇おうとするなんて。
「なんでお前は……俺なんかのためにそこまでするんだよ」
ほとんど独り言のように、俺の口から言葉が漏れた。
お前にとって俺は、たった二週間ほど前に出会ったばかりの同級生に過ぎないはずだろ。
今は「お試しの恋人」だのなんだのを名乗っちゃいるけど、それだってきっと、江奈ちゃんの元カレである俺を揶揄って遊んでるだけのはずだろ。
なのに、どうしてお前は……。
「だからさ。最初からずっと言ってるじゃん」
水嶋の答えは、やっぱりシンプルなものだった。
「好きだからに決まってるでしょ? 颯太のことが」
シンプルで、けれどとても真っ直ぐな言葉だった。
思い返せば、こいつはずっとそうだった。
たしかに平気で嘘は吐くし、息をするように人のことを騙すような奴だけど。
それでも、俺のことを「好きだ」と言う時だけは、こいつはいつも本気の目をしていた。それはもはや、他人が軽々しく「嘘」や「罠」だと決めつけるのが憚られるほどに。
(だったら……だったらこいつは、もしかして本当の本当に俺のことを……?)
ズキン。
これまで俺に向けられていた、水嶋の曇りのない瞳に。屈託のない笑顔に。
今まではすっかり無いものと思い込んでいた「想い」が満ち溢れていたように思えて。
怪我なんかしてないはずの俺の心臓が、かすかに痛むような気がした。
※ ※ ※
その後、応急処置と警察への通報を済ませた俺たちは、駆けつけてきたお巡りさんに簡単な事情聴取を受けたのち、もう夜も遅いということで速やかに帰宅するよう言いつけられた。
ストーカー男に襲われた現場周辺には監視カメラが複数設置されており、何より凶器のナイフもしっかり証拠品として押収されたので、奴さんが捕まるのも時間の問題だろうとのことだ。
大変な目に遭ってしまったが、ひとまずはこれで一件落着といったところだろう。
「……なるほどねぇ。それで心配になって、私のこと追いかけて来たんだ?」
念のために水嶋をマンションまで送ることにした俺は、その道中で一通りの説明をした。
昼間にあのストーカー男が何度か現場に出入りしていたこと。スタッフの間でも要注意人物とされていた奴だったこと。そんな男が、帰路につく水嶋を尾行しているのを見かけたこと。
「別に……ただ、ちょっと気がかりだったから様子を見ようと思っただけだ」
「いやいや、今さら誤魔化すのは無理があるでしょ。颯太、さっきめっちゃ必死だったし」
「う、うるさい! さっきのことはもう忘れろ!」
すっかりいつもの調子を取り戻した水嶋に、俺は案の定、恰好の玩具にされていた。
いや、自分でもわかってる。こうして冷静に振り返れば、我ながら馬鹿なことをしたもんだ。
いくら水嶋がピンチだったとはいえ、大の大人相手に、しかも刃物を持っていた奴に丸腰で挑むなんて、マジでアホの極みだと思う。大事に至らなかったのは奇跡と言っていい。
それだけならまだしも……。
「それにしてもさっきの颯太、カッコよかったなぁ。颯爽と現れたかと思ったら、『そこまでだ』なんて啖呵切ってさ」
「わー! わー! 聞こえない! 俺はそんな恥ずかしいセリフは言ってない!」
もうね、死にたい。
なんだそのフィクションの中でしか聞かないようなセリフは。なんでわざわざあんなこと口走ったんだ俺は。映画や漫画の見過ぎにも程があるって。
「あの時は、思わずこう、お腹の辺りがキュンとしちゃったよ。惚れ直しちゃったなぁ」
「うるさいうるさい! マジで今すぐ記憶から消せ! いや消してくださいお願いします!」
「ふふ、ダメダメ。忘れてあげない」
拝み倒す俺をひとくさり揶揄った水嶋は。
「……ねぇ、颯太ってさ」
そこで不意に両手の指を合わせて、一転してしおらしい顔をしてみせる。
街灯の光にぼんやりと照らされたその横顔は、仄かに赤らんでいるように見えた。
「本当は、その……すっごく強かったんだね?」
「……何の話だ」
「いや、だってほら、さっきあのストーカーの人をあっさりボコボコにしちゃったじゃん? 私もそこまで詳しいわけじゃないけど、あれって『空手』の技だよね? どこかで習ってたの?」
「…………はぁ」
まぁ、さすがにあれを見れば、俺が素人じゃないことくらい誰でもわかるよな。
あえて他人に言いふらすようなことでもないから黙ってたけど、仕方ないか。
「……俺さ、子供の頃は本気でヒーローに憧れてたんだ。誰であろうと救いの手を差し伸べる優しさと、それを貫けるだけの強さを持った、そんなカッコいい正義のヒーローに」
思い返せば笑ってしまうが、あの頃の俺は本気で「ヒーローになりたい」と思っていた。
英雄症候群真っ盛りだった当時の佐久原少年は、だから、親に頼み込んで近所にあった空手道場に通わせてもらっていた。強さ=格闘技、なんて、我ながら単純な考えだったと思う。
で、そんな子供じみた動機で始めた空手だったけど、どうやら俺には多少センスがあったらしい。小学五年の時には全小で入賞したりと、それなりの成績を収めたりもしてはいた。
「まぁ結局、中学受験やら何やらがあって、帆港に入学する頃にはすっぱり辞めたんだけどな」
つまり、現時点で俺には約三年ものブランクがあるわけだ。
それでもさっきあれだけ動けたのには、自分でもびっくりだ。今の俺が思っている以上に、小学生時代の俺はよほど真面目に稽古に打ち込んでいたようだ。
「……そ、そっか。やっぱり、そうだったんだね」
納得したように頷いた水嶋は、相変わらずしおらしい態度でじっと俺を見つめてくる。
「な、何だよ? 言いたいことがあるならはっきり言えって」
「ああ、うん。颯太って、やっぱり優しいなぁ、って思って」
「なんだそりゃ? なんで急にそんな話になるんだよ。俺は別に優しくなんか……」
「ううん、優しいよ。だって颯太、本気になれば《私のことなんか簡単に負かせたでしょ》?」
含みのある物言いに、俺は水嶋の言わんとしていることを察して口ごもってしまう。
たしかに、水嶋にはこれまで何度かフィジカルの勝負を仕掛けられたことがあった。
その度に俺は、ギリギリの所でどうにかそれを退けてきたけど……ぶっちゃけ、水嶋に怪我をさせないようにかなり手加減していた部分はあった。
「はぁ~あ。もう本当にさ」
わざとらしく困り果てたように肩を竦めて見せた水嶋が、次にはいつものように悪戯っぽい笑みで俺の顔を覗き込んできた。
「──惚れさせなきゃいけないのは私の方なのに、ね」
胸焼けしそうなくらい甘ったるいその囁きに、俺も思わず顔が熱くなる。
こいつはまた……よくまぁそんな恥ずかしいセリフがスラスラ出てくるもんだよなぁ。
「あっ、照れてる。今のはイイトコ入ったみたいだね?」
「は、入ってない! 断じて入ってない!」
ちくしょう。やっぱりこいつ、ただ俺を揶揄って楽しんでるだけなんじゃないのか?
「っと、ここだね」
なんて話をしているうちに、水嶋の住んでいるマンションまでたどり着いたらしい。
軽く三十階以上はありそうなタワーマンションのエントランスは、さながら高級ホテルのそれのような雰囲気だった。ライトアップされた大理石の壁に水が流れている。
「送ってくれてありがとう、颯太。良かったら上がってく? コーヒーくらい出すよ」
「いい。さすがに疲れたし、さっさと帰って俺は寝る」
これ以上さっきの俺の醜態をほじくり返されるのも勘弁だしな。
「そっか。残念、ちょっとだけでもお礼したかったんだけどな」
「お礼、って……何のだよ?」
「そりゃあもちろん、さっき私の事助けてくれたお礼だよ。ピンチの時に助けに来てくれるなんて……やっぱり颯太は、私のヒーローだね」
無邪気に微笑む水嶋。なんだか、心底ヒーローに憧れていた昔の俺を見ているかのようだ。
だけど、それを言うなら……身を挺して俺を守ろうとしたこいつの方こそ、俺なんかよりよっぽどヒーローしてただろ。
お礼というなら、むしろ……。
「でも、無理に誘うのも申し訳ないしね。今日の所は我慢します」
肩を竦めた水嶋は、「じゃあまた明日」と言い残し、エントランスへと歩いていく。
コツコツと大理石の床を鳴らしながら自動ドアへと歩を進める彼女の背中に。
「水嶋。その……明日のこと、なんだけどさ」
気付けば俺は、そう声を掛けていた。
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