✄あなたですから

 キュゥ、と水栓を搾る音。

 壁ひとつへだてた向こうでシャワーの音がやむ。窓の外の静けさがとってかわった。

 夜景をにぎわす車の音も聞こえない地上100メートル。


「……うわ、冷蔵庫にシャンパンある」


 無駄に広く、無駄に明るい、無駄に飴色あめいろな室内をうろつく。

 これまで気にもしなかった高層ホテル、の最上階。

 柔らかい暖色の灯りは、輪の中にいるだけで浮足うきあし立った気分にさせられる。リビングからバスルームのある廊下をわたってベッドルームへ。


 ――シー先輩からキーを渡されたんです。つまりWaQWaQ事務所からってことですけど。


 移動中に聞いた話によると、灯糸はおとといまでここのシングルで寝泊まりしていたらしい。それが逃亡の身になり今日いったんの和解。

 つまりはこれもテストで、私たちを試しているらしい。大人しく従うか、手の内に引き込んだとして扱える駒かどうかを。


「うっわうっわ柔らかぁ……」


 冗談くらい沈むベッドに腰掛ける。すごい、何票かかえたらこんな待遇になるんだろう。


「っ」


 浴室の内扉が開いた音にとび起きた。

 そそくさとリビングに戻りかけたとき、バスローブ姿の灯糸と鉢合わせる。


「ぁ」

「わっ」


 ビスケット色のセミロングからシロップのように水滴がしたたっている。紅潮した頬の上で見開かれた目がからかうように細まった。


「もしかして、お待たせしてます?」

「してないが!?」


 いや、今のはごゆっくりでよかったろ。どうした私。


「ヘアオイル忘れちゃって。センパイも使うなら置いときますけど」

「いや、いい」


 年中後ろでしばっている黒髪にはもっと必要なことがある気がする。


「そですか、じゃあ」


 毛足の長いじゅうたんを容赦なく濡らしていく後ろ姿を見送る。目当ての物を取ってきた灯糸はすれ違いざま目配せをくれた。


「センパイもどーぞ、待ってますから」


 ドライヤーを抱えて今度こそあがってきた彼女に促され、シャワーを浴びる。

 大理石調のバスタブと床、壁一面の鏡は自己イメージの低い人間を弱体化させる結界だ。ばちゃばちゃと水滴を顔に浴びながら考えた。


(待ってますからって何だ――?)


 寝てりゃいいだろう。運動したし。昼夜逆転してるのか?

 待つ。何を。私を? 私の……私と……


「は」


 排水口まで流れていきそうな思考をあやういところで打ち切った。場所にのまれている。

 少しずつ溜め込んできた何かがかたにハマッてしまいそうな。流れるコメントと喋り続けてきた直感が、それは拾うとマズい類のワードだと訴えている。


(やること、は。今後の方針決めとか……)


 そう、灯糸もきっとそのつもりだろう。

 相当数のフォロワーを獲得した私たちはひとまず平穏を手に入れた。だからこそ方向性の決定は急がないといけない。東新党はもはや仕事相手だ。感情的に好きになれなくても損得で繋がった文字通りビジネスの関係。

 表向きは反乱軍。じゃあ実際は? 争いを演出しつつもお互い決定的な部分に触れない癒着ゆちゃくか、あるいは闇を暴きフォロワーを奪い取る徹底抗戦か。

 常識的に考えれば前者が安全かつリターンも大きい。でも。


(親の仇、なんて)


 そんな言葉に現代で出会うと思わなかった。灯糸が党を抜けた理由。その核心に触れるべきかどうか。場合によっては。


「……ま、乗り掛かった舟だし」


 協力できる範囲でしてやろう。事情だって別に知らなくたっていい。彼女が決めたことなら。


(性根だけは叩き直さなきゃだけど)


 難題なんだいに思えた。たいがいゆがんだ連中ばかりと絡んできたけど灯糸のは筋金入りだ。傾城の言葉が呪いのように蘇る。


 ――あの子は根本からそういうものだし、あなたの未来おわりはあの子に結ばれてる。


 蛇口を閉めて水滴を振り払った。何を勝手に決めつけてると。

 サイズの大きなバスローブをひっかぶるように着て浴室を出る。



 リビングは明かりが消えていた。


「あ、センパーイ。そっちに用事あるなら電気つけてくださぁい」

「んー。いや、私ももう……っ……!」


 寝ようかな、とベッドルームへ入ったところで足が止まる。キングサイズのベッドの、思ったよりずっと入り口近くに灯糸が座っていた。

 ぎゅるんっと部屋の対角線へ体を向ける。


「なぁんで逃げるんですかぁ」

「逃げてない服着ろ!」


 ベッドを四つん這いでついてくるバスローブの淫魔を手で追い払う。前科のあるコイツをそばに寄せたくない。


「ヤだなぁ、いくらあたしでもこーんな格好でくっついたりしませんよ?」

「っ、ば……ッ!?」


 すぐそこで肩をはだけたバスローブを慌ててかき合わせた。瞬間、手首をつかまれ天井が正面に来る。


「はぁいお疲れ様です、倫理観さん?」

「いや゛ぁあーー! オカされるーー!」

「なんだ、やっぱそういうこと考えるんじゃないですか」


 しまった、空気ブチ壊そうと思ったらまた墓穴だ。なんとかマウントを取られる前に脱出した。


「むぅ、センパイのヘキってけっこーフクザツじゃないですか?」

「へ、癖も何も……!」

「あたしはセンパイみたいな人、いいなって思いますケド」

 ――操りやすくて。


 うるさいわかってるよ、媚びた目をするな!


「あたしのことはキライじゃないですよね?」

「……だからって好きでもない。演技やプレイスキルは認めてるけどそれ以外は」

「そんなぁ」


 シュンとした彼女から離れて、窓際のウッドチェアに腰かけた。


「……お水、のみますか」

「ん……」


 這いおりた灯糸がグラスと半分開いたボトルを持ってくる。丸いテーブルの上でシュワシュワと炭酸の泡がはじけた。


「ひと口飲んで見せましょうか?」

「いや……ん、じゃあ」


 私の前に運んだグラスを、細い指が持ち帰って傾ける。白い喉がこくりこくりと動くのを眺めていると、不思議と気分が落ち着いた。


「ふっ、く」

「ぷぁ、なんです?」

「ふふ、いや……ゼンゼン笑うとこじゃないんだけど」

「いいですよ、思ったこと言ってください?」


 憮然ぶぜんと突き返されたグラス半分の炭酸水をひと息に流し込んだ。火照った体に涼風が吹きわたる。


「クスリ盛られる心配する相手と、なんでこんな近いんだろうって」


 目の前で夜の光を浴びる少女は間違いなくいつかの通り魔で、私の場所を奪った奴で、今も日常をメチャクチャにしている最中だけど。

 おかげで私はまだイナバ已亡に関わっている。事務所もやめずに済みそう。いや、それにしたってプラマイ……


「センパイやっぱ押し倒してほしいんです?」

「ざっけんな目線合わせんなイス座れ!」


 対面を指して命じると灯糸は素直に従った。


「似た者同士だからですよ。お互い意味のないことはしないでしょう?」

「誰だってそうなんじゃない?」


 心外な前置きはいったん聞き流して返す。向かいの背もたれに沈んだ両肩がすくめられた。だったらいいのに、とでも言うように。


「馬鹿なヤツほど意味ないことをします。欲や感情で、好き嫌いで。プラスよりマイナスを取る。そんな人間に囲まれてると思ってみてください」


 あぁ、それは分かる気がする。でも誰だって少なからずそういう時はあるだろう。私だって。


「怖いですよ」


 こふ、と炭酸が喉をついて出た。震える声をもらした灯糸は抱いた腕をさすり。


「だから自分も他人ひとも分かりやすくした方がいい。ワケわかんないことをされないように。線引きして誘導する。配信みたいに」


 何かがに落ちた気がした。

 灯糸が人の情緒的なものにニブいのは間違いない。理解できないもの。にもかかわらず他人には当然にあって、原動力にさえなるそれを気味悪がるのは当たり前だ。


「でも、だったら……何でさっきみたいなこと」

「――わかんないの?」


 あまりにも違和感なく声の甘さが増していた。

 テーブルにひたりと着いた手が挑発的な笑みをぐっとこちらへ近付ける。


「同じですよ、センパイも。あたしと同じように人を操るクセに、あたしには理解わからないもので人と繋がってる。そんな人と組んだ身になってみて?」


 ぞくりと肩のつけ根あたりがざわめいた。いつもと違う灯糸の眼の底の色。


「た、頼もしいなー、とか?」

「ウソつき」


 ぱちりと長いまばたきをした目が睨んでくる。その耳先が色付いているのに気付いて、浮かしかけた腰を戻してしまった。


「安心させてよ、怖いセンパイ」


 顔に灯糸の影が落ちる。


「弱っちくて自意識過剰で、ヘンに物分かりがいいクセに必死で。みっともないのに皆が好きになるあなたを、わかりやすくして」


 気づいてしまった。

 これは篭絡ろうらくだ。急に縮まった距離を、彼女の生態スタンスが整理しラベリングしようとしている。なら返答権はこの一回きり。

 羞恥にうるんだ目は、振り払ったら今日の夢に出る気がした。取り返しのつかない選択をしようとする自分に、胸の奥の誰かが鳴らす警鐘。

 覆いかぶさってくるからだに腕を回す。きれいなつむじを胸の中へ抱え込んだ。

 オレンジとナッツを混ぜたような香りがふっと意識をぼやけさせる。


「んぐ」


 バスローブから生えた腕が私の頭へ回されると、抜け出してきた唇が私のそれを深くんだ。前歯同士が軽くこすれる。うわやっちゃった、ダメだ、


「ぷぁ、す、とっぷ、こら未成年」

「今はあたしたちが法律だよ」


 そんなわけあるか。かみつくようなキスをいなしていると、冷たい舌先が背けた首筋をなぞりあげた。


「んあっ、ば、」

「ぇれ、ふ、センパイは、あたし側ですよね……?」


 鼓膜へ直接注がれる素の声音。

 押しのけかけた手がそれだけで力を失った。


「……今更でしょ、そんな」

「あたしにとっては、今からハッキリさせることなんです」


 大きなあぶくのように浮かんだ感情を誤魔化すのに苦労する。たぶんそれは彼女にとってひどい侮辱になるから。


「私さ、もう言い訳できないくらいアンタとやらかしてると思うんだけど。まだ足りないわけ?」

「まだまだ、全部ですよ。あなたですから」


 ちっとも甘い言葉に聞こえなかった。それが逆にハードルを下げたのかも。

 テーブルを乗り越えてきた影に、嘆息してみせた。





………………

…………

……


 背中にあたる硬さと冷たさで目を覚ます。

 首をもたせたガラス窓の外が白みはじめていた。腰と床の間で敷き布と化している私のバスローブ。


(……やっっっちゃった、マジかぁ私ぃ……)


 濡れた捨て猫を抱くような気持ちで流された。ずきずきと痛む頭をもたげる。私の上ではしっかりバスローブにくるまった灯糸が穏やかな寝息をたてている。


(マジかぁコイツぅ)


 本当に寝落ちするまでやったらしい。私は正直トンだりハネたりでよく覚えていない。

 人工知能みたいな指先とむさぼるような唇。それらは陰湿な尋問官みたいに私を探って回った。ひとかけらの尊厳も見逃すまいとするように。

 イヤだとかやめてとか、最後の方は体をこわばらせただけでこじられ侵入された。試行のたびに攻め手は的確になり、最初のぎこちなさを味わう暇さえなかった。

 まったくもって凌辱リョウジョクでありエロ同人みたいな目にあわされた。まさか自分にこの慣用句を使う日が来るとは思ってもみなかった。


(なんか途中でシャッター音とか聞こえた気が……)


 首だけを動かして見回し、転がっている灯糸のスマホへ手を伸ばす。

 指紋認証に借りようと灯糸の指へ触れたとたん、ぞくりと甘いしびれを身体の芯が思い出した。


「……何してるんです」

「ひ」


 手首を掴まれ起き抜けの顔に睨まれる。


「い、やあの、昨日もしかして写真撮られたかなーって」

「なんだ、見たいんですか?」


 ふっとゆるむ表情。人をクッションにしたまま身体を伸ばすその無防備さにドキリとした。

 そう、昨夜のアレは間違いなく尊厳の略奪で、ただ私が灯糸の敵じゃないという宣誓でしかなかったのだけど。それが灯糸にとって肝心らしいという一事をもって私は、苦痛や他の感覚を受け容れられていた。

 あんな執拗しつようでどう猛な彼女を知る人もそういないだろうし。これもひとつの腐れ縁かもしれない。


(いや、ただれ縁かなこれは……)


 あんまり肯定していいもんでもない気がする。これっきりにしよう。

 けどもし再び、灯糸の中に疑いが生じたなら。コイツはまた同じことをするだろうか。仮にそうとして、一度目ほどの略奪で満足するだろうか、と考えて。


「これとかよく撮れてますよ」

「ひぁあっ何見せてんだ馬鹿!」


 真っ最中の、それもあられもないポーズまでカマしている写真を奪いにかかる。ひょいとかわした灯糸が片眉をあげた。


「センパイが見たいって言ったんでしょ?」

「そんなの撮ったって聞いてない!」

「了承得ましたよちゃんと」


 だろうね!? 超カメラ目線だったし、頭フットーするのもいい加減にしろよ私!


「け、消して!」

「ダメです。心配しなくても私以外には見せませんよ、多分」

 ――センパイしだいですけど。


 本当にうかつだったかもしれない。あんなもの握られたら本格的に言いなりだ。協力するとは決めたがそれでも物申したいことは山ほどある。


「そんなことしなくても私……!」

「あーそういうお気持ちは間に合ってるんで、キモいんで」

「塩っぱいなぁ!? 一晩も一緒にいてもうちょっとないの!?」

「キモ可愛かったですよ」

「降りろォ!!!」


 キレて振り落とすと灯糸はしれっと立ち上がった。


「お風呂とか入ります? 朝食呼んで二度寝してもいいですけど」

「……そんなノンビリやってていいわけ、昨日の今日で」

「向こうはそれどころじゃないですよ、きっと」


 寝ていた姿勢のせいか首が痛い。背中もバキバキだ。

 起き上がると身体のあちこちに赤いあとがついていた。胸や脚でコレなら嫌がった首や手首はもっとヒドイことになっているだろう。


「よくお似合いですよ、お客様」

「っな、ぁ」


 内心を読まれたような揶揄に首から上が熱くなる。


「センパイって意外にナルシストですよね?」

「はっ、じめて言われたわ!」

「じゃあたしが第一発見者ですね」

「この、軽口ばっかりっ」


 するりとバスローブが床へ落ちた。裸になって浴室へ歩いていく背中を追う。

 いいようにあしらわれている。でもそれ自体にほとんど腹は立たなかった。


(まあいいか、今はこれで)


 写真だけは早急になんとかしないとだけど。こちらが弱味を握ったとき一番に消させよう。それまでせいぜい良い気になってればいい。


「えっセンパイも一緒に入るんですか??」

「寒いんだよ温度差でカゼひくわ何なんだよお前ほんと」

「ふふふ、照れ隠しって言えば信じます?」


 ひとまず今は味方判定らしいから。行為や担保を欲しがるのだって変えていけるかもしれない。かつてイナバ已亡が大切にしたことを伝えるのも、この距離からならきっと。





 ――その日の正午。

 ――WaQWaQ公式から『依炉ちぃあ』のチャンネルが削除された。

 ――東京の地下鉄で身元不明の外国人が刺されたとニュースになった。

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