✄文句ないんでしょ?
給湯室。缶底の茶葉をはたいた緑茶がにごった渦をまく。
「えーと、一錠15mgだから……いいや、いっぱい入れよう」
手持ちの睡眠剤のカプセルをこじ開けて中身を溶かしていく。
「ふっふ、ワンショットで熊でもおねんねだぜぁ」
「何してるの?」
「ひぎぃ」
ぎぎ、と首を回す。ヘアマネキンみたいなつむじがすぐ後ろだった。
「ど、うしてここが」
「えー? 匂いとか? かな?」
うなじが
「これ、あたしに? 行動はやーい、さっすがぁ」
明るい声音が怖すぎた。どういう表情で言ってんだ?
「じ、自分用、なんだけど」
「ならそのお茶飲んでみせて?」
ガシャン、と先んじて茶碗を倒した。冗談じゃない。
「頭の回転早いんだ。昨日だって素人っぽくなかったもんね、
「……」
ただ恐怖が振り切れてバカになっていただけ。でも勘違いしてくれるならその方がいい。
「……ふーん」
くりくりとした目が私のそれを覗き込む。スっと逸らすと小さな唇がふきだした。
「イムちゃんてばかーわいーいー! 超わかりやすいじゃん嘘ーつき♪」
「う、わっ、やめ……!」
抱きつかれて反射でつきとばす。やば、と思った瞬間、尻もちをついたのは私の方だった。
「ひどーい、女の子の生ハグだよ。レズなんじゃなかったっけ?」
「ばっ、営業だしアンタ通り、魔……っ」
するりと片ももの外側をたくしあげた手の動きに後じさる。すぐに流しに背中がぶつかった。
「ふーんそうなんだ、じゃあそれが素ってことね」
見上げる構図に昨日のパニックが戻ってくる。普通に泣き叫びたい。やらないのはたぶん誰も助けてくれないから。
幼い
「大人しくしてくれれば何もしないから、ね?」
一見して子どもらしい
「イムちゃんから貰うものはもうないし」
「……は? どういう……」
無いもなにも、何も渡した覚えはない。
「だからぁ引継ぎとかもいらないってこと。機材は知り合いが詳しいし、キャラだって最近の配信見たらざっと掴めるでしょ」
「な、そん……っ」
「あれ、ニラまれてる? なんで?」
不思議そうに不愉快そうに彼女は片眉を跳ねさせた。
――胸を叩く声が叫んでいる。私はまだここにいると。
二重人格なんて大げさにいう話じゃない。ただ二年も演じればキャラクターだろうと愛着がわく。一から自分で創ったものならなおのこと。
「票が取れるなら文句ないんでしょ?」
イナバ已亡が、消えたくないと叫んでいる。
「……やめた」
「へ?」
「アンタには譲らない。アバターデータは私が握ってる」
「えぇぇ、くれないのぉ」
意を決して言うと一転して困り果てた顔をする。
「むしろ何でその態度でもらえると思ったの」
「命がかかってるのにっ?」
本当にいいの?という目。やっぱり
「さっ、きのは部長を巻き込みたくなかっただけ。私の命に大した価値はない。そんなのと釣り合うと思ってるなら、アンタの理解もたかが知れてる」
皆久地灯糸は眉をよせる。理解できないと言いたげに。
蛇口からしずくが二滴、三滴としたたった。
「ふーん、よくわかんないや」
にこり、と人懐っこい笑みで言う。いや怖ぇよ、こんな
親指以外マニキュアの落ちた手が差し出された。
「そんなとこ座ってお尻痛くない?」
「誰のせいだよ……!?」
ギャグみたいについツッコんでから我に返る。いや素で言ってるなヤバいぞマジでこいつ。
手は無視して流しにつけた背中をずり上げる。
「ゴメンってば、もう脅かさない。悪意はないの、昨日の夜だって」
「いや、それは……」
通らんだろ、いくらなんでも。
彼女はくぱっと手のひらを開いてみせる。
「ほらぁ何も持ってない。って、いうのも気に
「……本当に人間?」
かつて〈人間は友達だから飼って保護したい〉と発言したAIを思い出した。共通の倫理観がないなら、親しみなんて支配欲と変わらない。
答えず皆久地灯糸はあさってへ話題をふった。
「ねぇイムちゃん。ネットに一日でアップされる情報量ってどのくらいか知ってる?」
「は……? 知らないけど」
なんだいきなり。得意げに彼女は人差し指を回す。
「文字なら日本だけで150億字。動画音声なら10億秒。 秒ごとに人間知覚の万倍以上の情報が増え続けてるの。この環境でコンテンツが人目にふれるのって大変だよね」
社会の教科書でも開いたようにすらすらと。じれた私に気づくと早々に結論を口にした。
「だからぁ、昨日のアレはコマーシャルなの。新しく生まれ変わったイナバ已亡を、たくさんの人に知ってもらうための」
「は、ぁ?」
「配信の切り抜きを拡散したのも、ゴシップ好みの噂を流したのもあたしのお友だち。これで次の配信にはイナバ已亡を知らなかった人も集まってくる」
……それじゃあなにか、あれは。
「え、炎上マーケティング?」
「だよだよー。安心して、イムちゃんは被害者だし野次馬も優しいよ。あたしが出たらちょーっと荒れるかもしれないけど。それも予想のうちだか――っ」
彼女の眼前に手をかざす。わいて出る言葉に耐えられなくて。
「あんた、
やっと違和感がハッキリした。キャラとしてなら尖ったアクセント程度だったものが、リアルになってエグさが増した感じ。
「イムちゃんのこと? 思ったよりカワイイなって――」
「違う!」
もっと根本的なところ。人の視点でAIを見るような隔絶感。
「……もしかしてリスナーのこと? 何って
コイツは自分以外をゲームのNPCくらいにしか思っていない。あるいはもっと。
不思議そうに手のひらからのぞく目。それが
「イムちゃんってば優しいんだ」
背骨をひっかくような高音にゾワリとする。ホワイトベージュの前髪をかきあげた左手がそのまま顔半分を隠した。
「ひょっとして救ってあげたいとか本当の自分を見てくれるとか、思ってるカンジ? 昔の個人配信者みたい。VCは
二の句が継げない。いつの間にか距離が一歩ぶん縮まっている。
「この傾国♡ 政治資金どろぼー♡ 承認欲求おばけ♡」
「こ、この……っふざ」
ひきっと顔面が震える。反論できないがとにかく言い返してやると舌に力を込めたとき。
「おーい、お前ら何してんの」
ノックされる給湯室の扉。覗き込んだ登美部長は私たちを見て顔をしかめた。
「止町、いきなり泣かせるなよ。まだ十五歳だぞ」
「は、泣、え、じゅ……っ!?」
何もかもおかしい言葉に灯糸を見返す。隠されていた片目元が黒くにじんで、もっと幼い素のアイラインが露わになっている。つうっと流れる透き通った雫。
「え、はぁ!? 今……」
「いいからブースへ戻れ。お茶はアタシが淹れてく」
「ぐすっ……ふふっ」
灯糸が私だけに手の内をひらめかせた。スーツの袖にのぞく目薬の容器。
(このガキ……!)
やられた。人の同情を引く手際に感心と軽蔑が同時に沸き起こる。
「止町、よしな」
「だあって部長ぉ!」
割って入った部長の胸板に阻まれる。こうやって私の数十倍までリスナーを増やしてきたんだろう。だからどうした。
「部長さん、いいです。あたしには恨まれる理由があります。イムちゃんが作ってきたものを奪って、壊すんですから」
白々しく良い子ぶった言葉。アピールだとわかっていても癇に障る。
「バカにしないで。恨みなんかない。奪われも壊れもしない。イナバ已亡はそんな小さな器じゃない。それよりも薄っぺらい仮面で
イナバ已亡は私が最適化してきたキャラクター。スタンスから違う彼女にとって、お古のガワは邪魔でしかないだろうから。
もはや遠吠えでしかない。それでも言いたいこと。
「炎上マーケだって好きにすれば。それはアンタの始め方で、私が決めるのは私の終わりだけ。あぁ、言いたいのはね」
今はまだ、私がイナバ已亡。
「奪いたいなら、
ただでさえ不完全燃焼なんだから。人を見下ろすなら相応の火力を出してみせろ。アンタだけ燃えたってしょうがないんだよ。
「……ふぅん」
灯糸が目を細める。胸が冷たくなったのはその底の色が見えたからで。
「な、なんて、ハハ」
「へーぇ」
真新しいローファーが慣れた足取りで部長をかわして懐へ飛び込んでくる。トン、と胸の中心を指で押されて息が止まった。
「プライドとかあるんだ、あんなファン数でも。昨日だって」
人形にはまったガラス玉をのぞいたような無色透明。こちらの反応を探るようにその底の色がパタパタと切り替わる。あなどり、怒り、誘惑、共感――好意。
「っ」
「あぁ――」
しまった、と思った時にはもう遅かった。自分もそうだからわかる、相手の内側を探ろうとする目。
「――やっぱりカワイイ。自信が無いから奪われたいの、いっぱい褒めてくれる相手に?」
囁きが
「きゃっ」
「止町、いい加減にしな!」
「すみません!」
反射的に謝って肩を抱く。ジンジンと居座る
「だってこの子が……!」
「メスの顔してるよイムちゃん」
「めっ、こ、このっ」
「わかった! どっちもどっちだねアンタら、じゃれるなら後にしな!」
太い腕に引き離される。部長は疲れた様子で息をついた。
「それと、炎上とか聞こえた気がするけど。どういう話になってんだい」
「あ、それは大丈夫です。もう終わった話なんで」
「終わっ……いや、よしとこう。ならいい」
こめかみを揉むととにかく、と腕を組む。
「引き継ぎはきちんとやること。皆久地くんは言葉遣い」
「「はい」」
そろった返事にお互い横目を合わせた。
……まあ、百歩譲って。もう夜道で襲われないと分かったのはプラスだろう。だいぶ性格はアレだけど。上の決定は変えられないし、演技に人間性は関係ないし。
なら。どうせなら未練なく場所を明け渡せるように。
「よろしくお願いします、止町センパイっ」
「……よろしく、皆久地」
せいいっぱいのケジメは人懐こい笑みに受け流された。
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