愛猫

戯鳥

愛猫

 大学が夏季長期休暇に入る頃、まともにサークルなぞに入っていない俺は、これから訪れるバイトと課題以外虚無しか待ち受けていない夏休みに絶望的な思いを馳せていた。休みを与えられて狂喜乱舞するのは大量消費する財力と社会性とセックスをする相手を持つ「陽キャ」だけで、俺みたいな日陰者は如何に自分の生産性のなさと向き合う時間を減らすかを考えるといったような酷く惨めな裏路地に追い込まれてしまうか、あるいはそのために今日帰宅してから何を見て自慰をしようかとかしか、考えてなかった。あぁ、ケモかな。結局袋小路だが。日向は湯立ったアスファルトがグツグツしていた。

 前期最後の「半ドン」講義帰りの俺はきつすぎる日差しに耐えかねて、実際に道から逸れてジメっとした暗がりに転がり込んだ。路地は、多くの都市の隅の例にも漏れず、通行人や浮浪者や近所のクソガキなんかが捨てていったのであろうとるに足らないゴミたちが散乱していて不快だったが、すぐに皮肉なことを思いついて呆れたような気持になった。水を取り出そうとしたがうまく掴めず、リュックサックを前におろした。

 当然ゴミに近づく。と、よくわからない布とか紙とか弁当の容器とかの中に、一つ、汚れが少ない瓶みたいなものがあった。拾い上げてみると、中には錠剤が入っていたようで、コロコロと音を立てた。

「きとぅ……ないず?」

 その瓶の側面にはピンク色の創英角ポップ体みたいなフォントで「KITTENIZE PILL」と記されていた。さしずめ、「ネコちゃん化薬」というところだろう。ラベルのクオリティはなかなかだが、ジョークグッズにしては求心力が薄いというか……俺のようなケモナーにとっては、そりゃ現実にあれば嬉しいものなのだが。

 俺はその瓶を捨てることもできず、そのまま家に持ち帰った。家では愚妹がリビングのソファーで口を開けて寝ていたので、物は試しだとか、軽い気持ちで錠剤を一粒口腔内に落としてみた。しばらくして妹はぐえっという年頃の女子にあるまじきうめき声を上げて咳き込みだした。気道に入ったらしい。ようやく溜飲が下がったころには、どうも別の溜飲が昇ってきたようで、妹は横に立っている俺を今回の犯人だとすばやく判断したらしく、思い切り殴られた。何を飲ませたか問われたが、チロルチョコだよとか言って誤魔化しておいた。


 その二日後、俺は隣の部屋から聞こえてきた断末魔のような叫びを目覚まし時計代わりに起床した。何事かと思い飛び込んでみれば――なんと、妹に猫耳が生えているではないか!

 おまけに尻尾も生えていた。パジャマの隙間から飛び出し、呼吸に応じて動いている。

 妹はほとんど泣きながらこっちを睨みつけていた。俺はすぐにはあの薬のことを思い出すこともなく、ただただ非現実的な光景に高揚を覚えるだけだった。強いて言えば、土台が我が妹である点がいけなかったが、そんなものを押しのけるほどの威力を、それらは持っていた。その後すぐに殴られたことは、言うまでもないと思う。

 それから俺は妹に何を食わせたのかを問い詰められて薬のことを思い出し、ふむなるほどあれが効いたのだと合点がいった。妹に散々責められたので、少しだけ罪悪感があったが、それよりも目の前に広がる、二次元に限りなく近い物体への好奇心が俺の意識の全てを奪おうとしていた。

 夏休みの憂鬱? なんだそれは。これが俺の自由研究対象だ。


 その四日後には、妹に体毛と猫特有の鼻下と眉骨に生えるヒゲが発生した。変化が起きてからの二日間、彼女は一歩も外に出ることがなく、両親や俺が病院に連れて行こうとするのも全て拒絶した。生憎あの小瓶は家に帰ってすぐに捨てていたし、集団に共通の幻覚作用を及ぼすような薬なんじゃないかなとか想像していたが、それにしても効果が長すぎる。しかしながら、だからといって焦燥感は不思議となかった。彼女も彼女で、意気消沈したような態度であるだけで、むしろ普段よりも大人しくなったが、野菜の好き嫌いが激しくなった。昔ぬいぐるみを好む少女趣味があったが、長らくやめていたそれを取り出し、抱きながら寝ていた。

 そんな状況だが、猫耳狐耳のコスプレイヤーにいつか機会があれば着せたいと思っていた秘蔵の衣装の封を初めて切る手には、重みなんて微塵も感じられなかった!


 さらに一週間以上が経った頃、両親はホームセンターで高級キャットフードを買い付け、俺は猫砂のネットレビューを参考にし、彼女はよく家でゴロゴロするようになった。ときたま猫じゃらしで遊んでやったり、俺がパソコンを使っているとキーボードの上に座ってきたりしてくる。ウィンドウに表示されている猫耳美少女には欲情するものの、やはり彼女は彼女なのでただ可愛らしいだけだった。そういえば、以前よりも体格がスマートになった気がする。食事が良くなったからかもしれない。

 いつまでも手元に居座る彼女を諦めたように撫でてやると、満足気に喉を鳴らして応え、素直に脇に退いてくれた。

 以前まで感じていた社会からの疎外感や無力感は、彼女を愛でることによって考えないでいられるようになった。彼女が俺を必要としてくれているから。


 台風の脅威が過ぎ去り、夏には俺の気力まで吸い取っているんじゃないかと思われた木々植物も枯葉を落とす頃、我が家には緊急会議を開く必要が生じた。

 その議題は、「物置部屋にある若い女性用と思われる衣服」。その部屋の隣にいる俺は、真っ先に女装趣味があるのかだとか性自認を告白してみなさいだとか、そんな感じで問いただされたが、正直俺にもまるで覚えがない話だったし、秘蔵していたコスプレ衣装は一度開封したっきり(いつだったっけ)恥ずかしくなって捨てたので、疑われることも含めてまるで関係のない話なのは明白だった。思えば、あの部屋は隣なのに普段まるで開けないし、古い記憶にはどうもぬいぐるみが多かったような気がする。俺にはそんな趣味はなかったはずだが、貰い物だろうか?

 結局、結論は謎のまま会議はお開きになり、二階へ上り自室へ戻ろうとすると、その例の部屋の前でうちの猫が爪を研いでいた。

「ダメだよ、ドアで研いじゃ.......」

 抱き抱えて移動させ、自室で爪研ぎ用の木片を渡すも無視し、にゃあにゃあ鳴きながら俺の部屋のドアを引っ掻いた。

 ドアの真ん中には、いつか誰かからもらったらしいが趣味が合わなくて掛けておいた、ネコのぬいぐるみのキーホルダーがぷらぷらと揺れていた。

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