第62話 三つ目の魔法

 ダッダッダッダッ。


 黒沢課長の大きな体が、階段を激しく駆け降りていく。


「春田、あいつ! 許せねえ!」


 頭に血がのぼった黒沢課長が階段から足を踏み外しませんように、と願いながらあおいもそのスピードに追いつこうと必死で駆け降りる。


 なんだかとても大きな違和感を感じて、あおいの胸がドキドキと高まる。


――なんか、これ、違う気がする。


 黒沢課長は一階から外の通りへ走り出して、車道を見渡す。


「タクシー、いねえなあ。時田、タクシーを呼べ」


 電話でタクシーを呼んで待っている間も、黒沢課長はピリピリしている。


「ええと、デリデザイン……、札幌、と」とぶつぶつ言いながらスマホで相手の情報を調べている。


 あおいがふと横を見るとそこには銀さんのところで立ち話をしている天野碧社長がいた。


 最近ずっとイースト店勤務だったから久しぶりだ。


 このタイミングを逃したくない、とあおいは今感じている疑問のすべてをぶつけに行った。


「社長!」


「あら、時田くん。久しぶりね」


 今日の碧社長は珍しくふんわりしたフレアスカートを履いている。そのせいか、少し柔らかい雰囲気に見える。


「お、お願いがあるんです」


 あおいは、切羽詰まっていた。


 直属の上司黒沢課長が頭に血がのぼっている今、本田美咲の母としてでなく、上司として碧社長に頼りたかった。


「なあに?」


「三つ目の魔法をください!」


「あら……」


 碧社長は、愛おしいものを見つめるように目を細めた。


 その碧社長を銀さんが微笑んで見ていた。


「もう、魔法は必要ないかと思っていたのに……」


 あおいは真剣な目で願いを乞うた。


「お願いです」


 何かとんでもないことになってしまう前に、自分を正道に戻したい。


 碧社長からそのための魔法が欲しい。その気持ちを瞳に込めた。


「あらまあ。本当に、あなたのその眼は、あなたの宝物ね。こんなに澄んだ瞳を持った人、なかなかいないわ……。あなたは知覚の天才。だからああいう絵を描くのよねえ……」


 あおいは黙って言葉が来るのを待った。


 目の端で黒沢課長がスマホを見るのをやめてこちらへ歩き出してくるのが見える。


「そうね。三つ目の魔法をあげましょう。それはね、視点を追加する、よ」


「視点を追加?」


「そうよ。あなたのリンゴの絵、あなたから見たらああ見えたのでしょう。でも他の視点だってあるわよね。視点って無限にあるわよね。増やしてみて。知覚されるものがどんどん増えるから」


 碧社長がそういったとき、呼んでいたタクシーがやってきた。



***



「すいませんでした……」


 土下座をせんばかりに上体を深く折って頭を下げている男。ついこの間までよりどりぐりーんイースト店の店長だった春田一彦だ。


 黒沢課長の握られたこぶしが中途半端に胸のあたりまで上がり、ぷるぷると震えたままとどまっている。


「ここで、働いているのか?」


 春田一彦がイースト店のあるナナカマド商店街に出店しようとしているデリデザインで働いていることを、あおいが偶然見かけたのは昨夜のことだ。


 開店準備の工事をしているデリデザインの店先でよく知っている春田一彦を見かけたときは足元が崩れ落ちていきそうなショックを受けたが、帰宅してからマグカップと話して、幼少期からずっと一緒にいてくれるマグカップの友情を感じて大きな力を得た。


 その大きな力を何と呼んでいいのかはわからない。


 すぐ近くのライバル店へ転職するという春田に対する怒りかもしれない。そのことを知るであろう本田美咲を傷つけたくないという焦りかもしれない。よりどりぐりーんをつぶすもんかという意地かもしれない。でももっと強いのは、何か自分で納得できない大きな変化が起きていることへの違和感だった。何を正せばいいのかわからない。けれどこのままではよくない。


 何かそういう強いものに促されるようにあおいは朝いちばんで中央センターに向かい、黒沢課長にこのことを告げた。


 しかし、それはあおいが思ったよりも何倍もの激しい反応を引き起こしてしまった。


 黒沢課長は烈火のごとく顔を怒りで紅潮させた。


 自分が伝えた情報で導火線に火がつき、何かとんでもない爆発が起こるのではないかと、あおいは今不安でならなかった。


 タイミングが良いのか、悪いのか、タクシーで乗りつけたデリデザインの店先でちょうど宅急便を受け取る春田の姿があった。


 タクシーから降りるなり黒沢課長は「どういうことだ!?」と詰め寄った。


 春田は怒りに震えた黒沢課長と、その横に一歩下がって立っている時田あおいの両方を見て、もう一度深々と頭を下げた。


「すいません……。ご挨拶が遅れましたが、この度お近くに出店させていただきます。あらためましてデリデザインの春田です。どうぞよろしくお願いいたします」


「驚いたな……。こんなに近くに出店するなんて。こんな小さい商店街に弁当屋が二つ。しかも一つはおしゃれなデリの店ってか。やられたなあ……」


「どうも、何て言ってよいか……」


「ああ?」


 黒沢課長が一歩踏み込んだ。


 宅急便の小包を手にしたまま春田が一歩引きさがる。


「競業避止義務とまでは言わんがなあ……。なんでこんな義理に反することを……。お前、そういう奴じゃないと思ったけどなあ……」


 春田はさっと表情を曇らせて下を向いた。唇をかんで黙り込んでいる。


「なあ、東京に行くんだとばかり思っていたから送り出したんだよ。どうして、わざわざこんな近場で……」


 春田は表情のない顔でしばらく空を見つめてからぽつぽつと話し始めた。


「両親が相次いで入院して……、家じゅう大わらわになりました。そんなときに娘が私立に進みたいと言う……。これは、あなたたちの前で言うことじゃないかもしれないけど、とてもじゃないけどあの給料で、両親の介護費用から娘の学費まで全部払えるなんて思えなかったんです。頭を抱えて途方に暮れていたところに、デリデザインの君島がやってきたんです」


――あなたにふさわしいポストをご用意しました。本当の人生をここで始めてみませんか?


 提示された金額は、飛びつきたいようなものだった。


 みどり食品の仲間たちに嫌われてしまうかもしれないと思った。


 イースト店と敵対してしまうのだということも思った。


 でも背に腹は代えられなかった。


 両親を安全な場所に落ち着かせるため、娘の可能性の花を開かせるため、自分は今これをするしかないのだと思った。


 思ったより早かったが、こうして明らかになり、はっきりと敵対した方がよい。春田はかえって気が楽になった。


「デリデザイン出店にあたり、すでに総菜店や弁当店が出店していて数字を挙げているエリアであるということを前提としています……」


「ってことは、イースト店がにぎわってるから取り分をもらいに来たってことだな。なんだよ、ハイエナみたいじゃねえかよ。こっちだって負けねえぞ」


「そうおっしゃっていただけると話が早いです。こちらも本気です。真剣勝負させていただきます。どちらかが……、撤退するまで」


「おう。こっちは何としてもよりどりぐりーんを守り抜くぞ。伝統のみどり食品をなめるんじゃねえぞ」


 戦いのゴングが鳴った。


 あおいはこのやり取りに激しい違和感を感じていた。


 言葉にならない感情が湧いてきて叫び出しそうだった。


 バッグをぎゅっと抱きしめて、バッグの中のマグカップに小声で振動を送った。


「どうしよう……」


「ぶるるるる……」


 バッグの中からマグカップが返答した。


「あおいくん、魔法だよ! 魔法を三つとも使うんだよ」


――魔法……。


 もう何度も使っているあの二つの魔法。


 「周りに関心をもつ」、「すべてをメモする」。


 周りに関心をもつことで、あおいは心のシャッターを少しずつ開けることができるようになってきていた。


――前の僕は、会社の人たちに対して関心なんかなかった。でも今は……、関心をもつようになった。だから心配なんだ……。だからなんとかしたい……。


 そして、すべてをメモすることで、自分の仕事の軸となる定義を明らかにし、それに関連することを知覚できるようになってきていた。


――春田さんについてこれまでいろんなことをメモしてきた……。だから知っている。春田一彦。東区のナナカマド商店街が地元。長男。ずっと野球部。大学でも体育会系。


 そしてさっき伝授された三つ目の魔法。


「視点を追加する」


――視点を追加? 僕の視点だけじゃなくて……。そうだ、春田さんの視点……。春田さんの眼には何が見えているんだろう……。


 あおいは、自分という個から離れて、春田一彦から見えるものを感じてみた。


 小さい頃から慣れ親しんできたナナカマド商店街……。両親の入院……。娘の進路……。 


――そうか、このナナカマド商店街と春田さんは、深くつながっているのだ。


 いろんな気持ちがあおいの胸中に渦巻いていた。


――春田さん、お金が理由で転職したんだ……。ご家族のために……それは仕方なかったのかもしれない。けれど、すでにある程度売り上げを持っている弁当屋の近くに出店するというそのやり方は、なんだかとても納得できない。春田さんはそれを本当にいいと思っているんだろうか。なにか、とても苦しい一択を人生から迫られたのではないだろうか。それに黒沢課長……。あんなふうに宣戦布告するなんて、ちょっと感情的すぎるんじゃないだろうか。


――春田さんが敵になるなんて。このことを本田美咲が知ったらどんなに悲しむだろう。多津子さんもきっとショックを受ける。ああ、彼女たちにどう伝えたらいいだろう。どうすれば、みんなが幸せになるだろう……。


 黒沢課長の視点、美咲の視点、多津子の視点。それぞれ、思いがあるのだ。

 

 あおいの知覚は多重多層に展開し、それらが渦のように混ざり合った。


――どうすればいいんだ……。


 あおいはもう一度マグカップを握りしめた。


「ぶるるるる……。あおいくんなら、最高の答えを出せるよ。あおいくんが思いつく、最高の答えを出せばいいんだよ……」


「最高の答え……? なんか、感じていることが広がりすぎて……」


「ぶるるるる……、そうだよ、もっと広くていいんだ……」


――ああ、どうすれば、みんなが幸せになるんだろう……。もっと、広くていいんだ……って? あ、もしかしたら……、分かったかも……。


 あおいは、ふうとため息をついた。


 心が透明になっていく。


 堂々巡りをしていたたくさんの思考はやがて速度を落として、一点に落ち着いた。


 それは激しく回っていたコマが、その中心点に重心をおいて静止したような瞬間だった。


「あの……」


 あおいは丁々発止とやりあっている二人のところへ歩み出た。


「なんだ、時田?」


 黒沢課長が怪訝そうに見る。


「春田さん、おめでとうございます」


「おい、おめでとうってお前」


 あおいの心の中に、いま見たことのないような青空が広がっていた。


「転職、開店、おめでとうございます! これからも仲間としてよろしくおねがいします」


「……仲間?」


 春田が驚いた表情をした。


「はい、仲間になりましょう。いっしょに、このナナカマド商店街を、最高の商店街にしていきましょう」


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