第63話 星降る夜に
春田に「おめでとうございます」という時田あおいを、黒沢課長は異星人でも見るかのような目で見つめた。
「なんだ、それ。時田」
「あ、いや、ですから。店と店の競争って考えるとちっちゃいですけど、ともにナナカマド商店街を盛り上げていく仲間っていうふうに大きく広く考えると、敵対することないし、むしろ素敵なことなんじゃないかって……」
春田もそれには賛同できないように険しい表情を崩さない。
黒沢課長はあきれたように「今、そういう甘いこと言ってる場合じゃねえだろ」とあおいの肩を小突き、「とにかく、徹底抗戦だ。覚悟しとけよ、春田」と言い捨てるように言って歩き始めた。
「あ、あれ? あ、じゃあ、春田さんまた来ます」
あおいは春田に笑顔を見せてから、ずんずんと歩いていく黒沢課長を追いかけた。
***
その夜、あおいは少し疲れて、自宅の窓から夜空をぼんやり眺めていた。
あれから黒沢課長に少し叱られた。
徹底抗戦だ、本気を出せ、甘いことばかり言うな。断片的な言葉が針のようにあおいの心に刺さる。
その針が刺さったまま、イースト店で勤務していた。
まだ春田のことは、多津子と美咲には言わないまま一日が過ぎた。
刺さった針は、あおいの心を違和感で満たしていく。
――そうじゃないんだよ……。戦うっていうのが、なんか、違うんだよ……。甘いこと言ってるんじゃなくて、心から思ってるんだけどな……。
「あーあ、今日は疲れちゃったな……」
あおいはソファに座り込んでマグカップを握りしめた。
すぐにマグカップが応答する。
「あおいくん、今日すごく素敵だったよ。春田さんにおめでとうございますを言うのがすごくよかった!」
「ありがとう。でも黒沢課長に怒られちゃった……」
「あれは、伝わらなかっただけだよ。ほら、あおいくんの中でまだカタチになっていないことを、言葉にしたから」
「そうなんだよなあ……。魔法を使って考えたら、競争するんじゃなくてナナカマド商店街の盛り上げを共にやる仲間だって、心から思えたんだよ」
「それがあおいくんの考える、いちばん最高の答えだったんでしょ」
「そう……、けど、うまく伝えられない」
「絵にしてみたらどうかな……」
「そうか……、絵に……!」
マグカップのアドバイスでこれまで何度もあおいは新しい世界へ足を踏み出してきた。
今回のアドバイスもスマッシュヒットだ。
あおいの体中の血が湧くような興奮がやってきた。
「絵に描けばいいんだ……」
そこからはまるで宇宙遊泳をしているように一瞬であり永遠のような時が過ぎた。
一番大きな画用紙を出してきてテーブルに広げ、あおいは一心に絵を描いた。ナナカマド商店街の俯瞰図だ。
細かいところまで、ていねいに。
最近は寒さが増してきてすっかり赤く色づいたナナカマドの木。商店街の両脇の歩道に一本一本の枝ぶりまでを描いていく。細い筆をつかって焦げ茶の枝をすっと描く。赤いナナカマドの実を筆の先を使って小さく描く。
喫茶店から出てくるサラリーマン。少し疲れているけれど、表情は柔らかい。この喫茶店もずっと昔から営業している。誰かの休憩の時間を、そっと提供しているのだ。
ラーメン屋に連れ立って入っていく高校生たち。お腹をすかせた若い人を受け入れてくれる店が商店街にあるのはいい。このラーメン屋の店主は彼らが入ってくるとついチャーハンを大盛にしてしまう。ラーメンの替え玉をサービスしてしまう。その店主が笑顔でフライパンを振っているところも描きこんだ。
舗道で立ち話をする主婦たち。近所の友人にばったり会ったのだ。地元にいるからこその、リラックスした、楽しそうな表情。誰もきどっていない。誰もせかせかしていない。
みんなちょっと安心しているのだ。なぜならここが自分たちの地元の商店街だから。
あおいは商店街のほかの店舗も正確に描いていく。看板の色や、ドアの形など、いつも見ていてすっかり憶えている。
そしてよりどりぐりーんイースト店を描いていく。鮮やかな緑色のひさし。店頭に並べられた商品を選ぶお客さんたち。笑顔で応対している長谷川多津子も描いていく。描きながら、多津子の笑顔はなんて春の日差しのように暖かいのだろうとあらためて感じる。彼女がいてくれることで、よりどりぐりーんの印象はどんなに暖かになっていることだろう。
店先に出された黒板に飾りつけをしている本田美咲の姿も心を込めて描き入れる。背中に流れる巫女のように清らかな長い黒髪の一本一本を、奇跡のように思いながら描いていく。美咲はいつもこうやってのめりこむように背中を丸めて作業をする。真剣なのだ。そのことを尊いと感じながら描いていく。
こうしてみると、イースト店で繰り広げられている日常が、ナナカマド商店街の一部となっていることが俯瞰できる。イースト店だけがあるわけじゃないんだ。お客様たちはそんなことは思わない。ただ、安心して、地元の商店街を歩いているのだ。その幸福に、自分たちの仕事で関与していきたい。あおいはそう思いながら店舗を次々と描き足していく。
いま工事中のデリデザインも描いていく。とてもおしゃれなつくりだった。ヨーロッパのお店のような洒落たファサードの店がナナカマド商店街にあるのはとてもいいとあおいは商店街全体を描きながら心底思う。そこで働いている春田一彦の姿も描く。よりどりぐりーん店長時代とはちょっと違って、フランス料理店のギャルソンみたいな服装を着せてみる。似合うなあ、カッコいいなあ……、春田さんは、ずっとこの商店街で育ったんだ。とびっきりおしゃれをして、カッコよく店頭に立っていてほしいなあ。あおいの筆はとどまることを知らなかった。
描きこめば描きこむほど、ナナカマド商店街が夢のように素敵な通りになっていくように思った。
そうだ、今はまだないものも描こう。
舗道にガーデニングをしてみよう。さまざまなお花が咲くのはどうだろう。
小さい子どもたちに風船を配ったらどうだろう。
いまシャッターが閉まっている物件にも、全部何かのお店が入ったらどうだろう。
音楽を奏でている人がいたらどうだろう。
犬や猫も楽しそうに歩いていたらどうだろう。
あおいは自分がひとたび絵に向かうと、そこにどれだけでも没入できることをしっていた。描いているものは、理想と現実が織り交ざった、いま自分で創り出している世界なのだ。
絵を描くことであおいの知覚しているものが、実在のものを超えた可能性の範囲まで広がっていく。
何も考えなくても、勝手に手が動いていく。
絵を描くことはあおいにとって至高体験をもたらすのだ。
この夜も、宇宙遊泳のように現在と未来、実存と創造が入り混じりながら、あおいは時をわすれて夢中になった。
「ふう……」
完成したとき、あおいは深い満足を感じて立ち上がった。
体中がしびれて痛い。ずっと同じ姿勢で集中していた。
時間を見るともうずいぶん夜が深まっていた。
窓辺へふらふらと進み、空気の入れ替えをしようと窓を開けた。
どこまでも続きそうな美しい星空。しばしあおいは見とれた。
7階の窓から見える11月の月。
雪がちらついている。
すべてを凍らせるような冷気が漂う空。
札幌の冬の月はペパーミントグリーン。
カチンと音がしそうなほどくっきりと冷たい真夜中の月。
そして、またたく星たち。
きゃらん、きゃらん、きゃらん、きゃらん。
そんな音が無限の彼方から無数に聞こえてきそうな、降るような星たち。
「きゃらん、きゃらん、きゃらん、きゃらん」
気づけば赤いマグカップを片手に、あおいはいつしか独り言を言っていた。
「ぶるるるる……、なあに? それ」
「なんかさ、窓開けていたい気分。星の降る音が聞こえてきそう。星の音って、きゃらんきゃらんっていう感じしない?」
「きゃらん、きゃらん……」
マグカップも調子を合わせた。
「うふふ。君は本当にいい友達だ」
「ありがとう、あおいくん」
あおいの指がマグカップを撫でた。
「ここ、ひびが入っているのに、いつもどこでも連れていかないほうがいいかな。割れちゃったら大変だ」
マグカップは、これまで聞いたことがないくらい強い音でぶるるるる……、と振動した。
「割れてもいい」
「えっ」
「割れてもいいから連れて歩いて。ボクは、長持ちするよりしたいことがあるんだ」
「したいこと?」
「こうして、あおいくんと働くことだよ。最高だよ。本当に、本当に、ボク幸せだ」
「幸せ……」
「そうだよ! 働くのって、本当に楽しいね! 自分が社会とつながって無限に広がっていく感じ。働くってすごいよ! 自分と星空が、つながるみたいだ!」
「それ、すごいね。この星空とつながるんだな」
「きゃらん、きゃらん」
「きゃらん、きゃらん」
あおいの胸に不思議な感情が流れ込んできた。
それはまるで黄金の暖かい液体が流れ込んできたような特別な感情だった。
誇りたい友人を持つ人は、この感情を感じるのではないだろうか。
「あ、そうだ……」
あおいは、このどこまでも透明な藍色の夜空と、凍りついたようなペパーミントグリーンの月をバッグに、窓際にこの赤いマグカップを配置した構図の絵を描けないかと考えた。
このかけがえのない友人の絵を描きたい。
一度噴出した絵を描く欲求が今夜はまだ収まらないのだ。
「ちょっと、君、この窓辺にいて。いま、写真を撮るよ」
その構図の美しさに夢中になったあおいは、窓を開けたままスマホを取りに行こうとした。
マグカップを窓辺に置いて、スマホを構えようとしたそのとき、大きな着信音が鳴った。
画面には「ひじき」と表示されている。
「えっ、えっ、えっ?」
驚きのあまり体勢を崩したあおいが窓枠を掴もうとして、窓辺に乗せていたマグカップにその手が当たった。
赤いマグカップは、きゃらんきゃらんと星降る外へ、7階の窓から下へ、あっという間に落ちていってしまった。
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