第61話 職場に不快な人がいるのは、誰のせいかな

「できた……」


 清野マリアは脚立から降りて、ふうと一息ついた。


 圧巻の光景である。


 みどり食品二階の廊下の両側の壁一面に貼られた、お客様からの声。


 ふるキャラとしていま大変な人気になっている、みどり食品創業時のキャラクター「みどりちゃん」のプレゼント企画に集まった8000通のうち、リアルなお客様の声として活用できそうな500通を当選者として選んだ。その500通のメールのプリントアウトやハガキを、一覧表などに加工することなくそのままこの廊下に貼りだしてほしいと天野碧社長から指示された。


――未加工のものを読みたいの。そのままのものにはエネルギーがあるのよ。マリアさんはセンスがいいから素敵に二次加工してとても読みやすいものになるかもしれないけど、本人の筆跡がいいわ。読みづらいものもそのままがいいわ。この、送ってきたそのものを私たちは使いましょうよ。この廊下に、成果の小径をつくりましょうよ!


 碧社長はそう言ってまるで少女のように目を潤ませていた。


 まったくあの人は……、とマリアは小さく笑う。


 ずっとあの人のすっと伸びた背中を見てきた。


 細い肩にかかる重圧に愚痴も言わずに微笑みながら職務を遂行し、多忙なはずなのにいつもエレガントな立ち居振る舞いで社員に接している碧社長は、マリアの憧れだ。


 いつかもう少し近づきたい。


 いつかあんなふうになりたい。


 碧社長みたいにスーツを着こなす大人の女性になりたい。


 いつか、それにふさわしい女性になれたら、今のピンクのラブリーなファッションから、碧社長みたいなクールビューティなファッションに切り替えていこう。


――でも今はまだもう少しピンクのお世話になろう。


 マリアは入社した年のことを思い出していた。

 自分のおせっかいが空回りしていた時期だ。

 ついつい、忙しそうだからコピーを代わりにとってあげたい、疲れていそうだから暖かい飲み物でも淹れてきてあげたい、と誰に対しても思ってしまう。そのたびに、上司や先輩から「こっちのことはいいから」、「おしゃべりばかりしないで自分の仕事をして」などと言われ、悩んでいた頃だった。


 風見先輩に嫌がられたのと同じ理由で、周りから煙たがられてしまう。


 しょんぼりしていると、天野碧社長が声をかけてきた。


「マリアさんみたいに優しい子、見たことないわ!」


 マリアが何と言っていいか恥ずかしがっていると、碧社長が魔法を授けてくれた。


「あなたに、ひとつ魔法をプレゼントするわね。それは、ピンク色を大切にすることよ。あなたはまるでピンクのリボンみたいに、お砂糖菓子みたいに、柔らかくて暖かい優しい個性をもっているわ。その自分を否定したらだめよ。卑下なんてしちゃだめよ。あなたはそのままのピンク色のあなたでいてね。あなたはいつも黒い服を着ているけれどピンク色のお洋服なんてどう? きっと似合うわ!」


 それからマリアはピンク色を着るようになった。


 大好きなピンク色を着ていることで、マリアは自分らしいペースとリズムで仕事ができるような気がするのだ。


 今朝からずっと午前中かかって、ようやくお昼休み直前に貼り出す作業が終わった。


 きれいにネイルした自慢の爪が折れた。爪だけは碧社長の真似をしていつもグラデーションのジェルネイルをすることにしているのだ。


「なかなかうまく貼れた……」


 そこへさっきまで手伝っていた氷川主任と小田桐このはが戻ってきた。二人は貼り出しに使ったテープや脚立を片付けてきたのだ。


「ああ、やっぱりいいですね。本当に、成果の小径という感じがしますね」


 氷川主任が嬉しそうに貼り出されたものを一つ一つ読んでいく。


「これは、社員みんなに読んでほしいですね。嬉しいお言葉がたくさんありますよ。ほら、これは以前新入社員研修でうちのお弁当を食べたという西区の方ですね。難しい研修のお昼ご飯に食べたお弁当に入っていたみどりちゃんカードにほっこりしましたって」


 このはも丹念に読んでいる。


「あー、これすごいですね。今年定年退職する中央区の女性の方から……。欠かすことなくずっと毎週金曜日のお昼にバイク便でお弁当を配達してもらって職場の仲間と食べていました。歴代のバイク便のお兄さんがどの方もとても暖かくて優しくて、お昼前にバイクの音がすると嬉しくて出迎えに行ったものです。お兄さんたちとの会話が楽しくって、私みどり食品さんの大ファンです、って書いてくれてますよ」


「あー、それ読んだ。感動したよねー。配達チームにお知らせしなきゃ」


 マリアは「ふふ」と笑いながらしゃがんで、一枚のハガキを指でなぞった。


「あとこれも好き。澄川のよりどりぐりーんでアルバイトしてました。江夏店長にめっちゃ鍛えてもらいました! どこでもやっていけるさわやかな根性が身についたかも~、だって」


 それを聞いたこのははちょっと微妙な表情をして首を傾げた。


「およ? やっぱし苦手?」


「うーん……。先週も会社帰りにサウス店の前通ったんですけど」


「澄川、最寄り駅だっけ」


「はい。聞こえてくるんですよね。怒鳴っているような声が……」


「まじ」


 なんとなく会話が途絶えた。


「あのー、それってですね、小田桐さんの耳が良すぎるからなんじゃないでしょうか」


 氷川主任がそのタイミングを計ったかのように会話に入ってきた。


「実は私も澄川駅を利用することがたまにありまして、サウス店の前でその声を聞いたことあるんですけどね、威勢のいい掛け声のように聞こえなくもないような……。そもそも何言っているかは聞き取れないですし……」


「え。聞き取れますよ、めっちゃ」


「それ、このはちゃんの耳だからなんじゃないの?」


「まあ、内容がひどければ聞こえる聞こえないの前にそもそもよくないわけですけれどね」


「ん-と、内容は、おいおいとか、早くしろよーとかそういうのでした」


 マリアは割れた爪を気にしながら「ひどい内容でもないじゃん」とつぶやいた。


「まあさあ、怒鳴っているのか威勢がいい掛け声なのかって、聞く側の不快感のあるなしで微妙っちゃ微妙よね。このハガキの人は不快感なし。このはちゃんとか赤塚くんはきっと不快感ありなんだよね」


 このはは口を尖らせて言った。


「職場に不快な人がいるっていう状況がもうダメです。赤塚さんかわいそうで」


 その言葉にマリアの片方の眉がすっと上がった。


「そうかな?」


「え?」


「職場に不快な人がいるのは、誰のせいかな」


「はい?」


「職場に不快な人がいないようにできないかな」


「どうやって?」


 このはは思わず前のめりになる。


「動物園見てみ。あんな個性集団がさ、ほんらい自然のありようなんだよ。だから人類だって個性はさまざまでしょ。このはちゃんみたいな繊細な感性の子もいれば、私みたいなピンク色のへんなのもいるってわけ。こうやって会社っていう箱の中にその人類の一部がどさっと入れられてさ、その全部が自分と同じ種類の特徴を持った似た者同士なんてありえないっしょ。それらをいちいち自分と違うって否定してたらやってられないよ。毎日不快! 全員不快よ!」


 マリアの言葉にこのはは思わず噴き出した。


「確かに……」


「でっしょー。世の中どこを切り取ったって個性のるつぼよ。おせんべいのアソートパックみたいなもんよ。うちの商品でいったら幕の内弁当ってこと!」


 氷川主任が大きな声で笑った。


「傑作ですね! そうか、幕の内弁当は確かに個性派集団ですね。唐揚げも必要だけれど、コロッケも入っていると嬉しいですし、煮豆やポテトサラダ、梅干し、ブロッコリー、いろいろ入っているからいいですよね」


 マリアはここぞとばかりに頷いてこのはに近寄って肩に手を掛けた。


「こういうさあ、氷川主任みたいな優しいエレガント系男子もいれば、黒沢主任みたいな猪突猛進おやっさん系もいるわけよ。それが人類のるつぼよ。面白いじゃない、人と働くのって」


 このはの心の中でかたくなに凝り固まっていた考えが、今ふんわりとほどけていくような気がした。力を抜くととてもおかしくて、笑いだしたい気持ちが心底から出てきた。


「ぷ、ぷぷぷ、ウケます。マリアさん。猪突猛進おやっさん系って……、わはははは」


 初めて大声で笑ったこのはを見て、マリアは胸にぐっと何かがこみあげてきた。目にうっすら涙が浮かんだ。


 気づかれないように指で目尻をぬぐってさらに軽口を叩いた。


「猪突猛進おやっさんに、この成果の小径を早く見せたいね! 朝、あおいくんと春田店長の討ち入りに行ったっきりだもんね」


「討ち入りってそんな野蛮な……」


 慌てて訂正しようとする氷川主任をキッと睨んでマリアは言った。


「討ち入りじゃなきゃ、成敗よ。討伐よ。あんな怒った黒沢課長の顔、見たことないもの」

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