第60話 こうなったら徹底抗戦ね!
開けっ放しにしたカーテンの向こうに、星空が見える。
時田あおいは最近家にいるときはいつも赤いマグカップを握りしめてしまう。
心がどこかに漂い出て行ってしまいそうになるのを、マグカップを握りしめることで食い止めているのだ。
「あー、なんか不安だよ」
あおいはマグカップに話しかける。
「あおいくん?」
マグカップは優しい振動をあおいに伝える。
この微細なやりとりが二人ともすっかり上手になった。
触れてさえいれば、ささやかな振動で二人の会話は成立していた。
「なんでもないんだけど」
「ひじきくんのこと?」
「うん……。ひじきは多分、大丈夫」
「美咲さんのこと?」
「あー、うー」
「それともさっきの新しくできたお店のこと?」
「うん、それ」
ナナカマド商店街の入り口にできたおしゃれなデリの店。きっと人気の店になるだろう。みんなあそこで総菜を買うだろう。これまでイースト店で買っていたお客さんもきっとみんなあの新しい店で買うだろう。あの、デリデザインっていう店……。
そこまで考えてあおいはガバッとソファから起き上がった。
「デリデザイン?」
聞き覚えのある社名だ。
「デリデザイン……、デリデザイン……。なんだっけ?」
マグカップが助け舟を出す。
「デリデザインってこの間、ひじきくんのこと抱きしめながら話していたよね。水色のワンピースに、カレーをどろりとかけちゃった話」
「それだ!」
新入社員の頃に、当時社長だった天野緑太郎のところに東京から来ていた、あの都会的で冷たい女性。あまりに緊張して持っていたカレーをその女性の水色のワンピースのおなかのところにどろりとかけてしまった。あれから緑太郎社長からのあおいへの風当たりが強くなったのだ。
思い出すのも嫌な記憶だったはずだが、ひじきを励ますためだったらいくらでも話すことができた。まるで、ひじきを励ますためにあらかじめ体験したようなエピソードに思えて懐かしくすらあった。
その女性の会社名が「デリデザイン」だ。
あおいは赤いマグカップをしばらく優しく撫でて、無言で考え事をした。
そしてつぶやいた。
「あのさ……」
「なあに、あおいくん」
「人生ってさ、あ、人生って人だけじゃなくてマグカップもかもしれないけどさ」
「いいよ、人生っていう言葉で」
「うん。人生ってさ、二周目みたいなのあるような気がするんだ」
「二周目?」
「そう。デリデザインが僕の人生に現れるのは二回目だ。まるで同じように、記号的にまたこの言葉が僕の人生にやってきたように思うんだ。デリデザインと出会った一回目は最悪だった。どもるようになったりして、ひどい顛末だった。ぜんぜんだめな僕だった。今回、またデリデザインが僕の人生に現れた。なんだかこれ、二周目っていう感じがするんだ。リベンジといってもいい。今回は、おどおどしたりしない。また敗北はするかもしれないけど、今できる最高の対応をしてみたいんだ」
マグカップは、「ぶるるるる」と震えた。それは感動の振動だった。
「あおいくん、かっこいい」
あおいはマグカップのひびが入っているところを指で撫でた。
「それとさ。さっき、嫌なものを見たような気がするんだ」
「嫌なもの?」
「ある人の、後ろ姿だ。見間違えようがないんだ……」
「あおいくん……」
「マグカップちゃんよ。ずーっと一緒にいてくれよな」
「もちろんだよ! あおいくん!」
あおいは、小学生の頃からずっと共にいるこのかけがえのない友人を両手で優しく包み込んだ。
このかけがえのない友人の存在が、きっと自分を強くすると思った。
***
「えっ、クリスマスのオードブルですか? イースト店で、ですか。いえ、今年も全店で例年通りのものをご提供する予定です。はい、来週から店頭と新聞にチラシが入ります。併せてホームページでも更新いたしますのでご覧ください」
小田桐このはは休み明けの朝いちばんに受けた問い合わせの電話にそう言った。
電話を切った後、首をかしげる。
――この間の男性だわ。同じ声。確か、どこかで聞いた声なんだけど……。
「このはちゃん、どうしたの?」
マリアが不思議そうにこのはを見ている。
「あ、今の電話。イースト店でクリスマスの企画今年何か新しいことをやるかどうかのお問い合わせの電話なんですけど。多分、この間イースト店の移転の計画はあるかとか五店舗目の出店計画はあるかとか聞いてきた男性の方だと思うんです。でも、どこかで聞いたことある声なんですよね……」
「前に電話でお問い合わせいただいたからじゃないの?」
このはは「うーん、違うんですよ。もっと前から知っている人だと思うんです。誰なんだろう……」と、じれったそうに立ち上がり、空気を入れ替えるために窓を少し開けた。
窓の下には駐車場が見える。
一台のタクシーが停まっていた。誰かが待たせているようだ。
それを見た瞬間、このはの記憶の回路がつながった。
「思い出した!」
このはが珍しく大きな声を出したので、マリアは目を丸くしている。
黒沢課長と氷川主任も手元の作業から目を離してこのはの方を見ている。
「春田さんだわ! 春田さんの声です! この間の、イースト店は移転するかどうかのお問い合わせの電話も、今の、イースト店で特別なクリスマス企画をやるかどうかの電話も春田さんの声!」
そこへ、滑り込むように息せき切って時田あおいが現れた。
「ああ、もう、お気づきでしたか」
そのあおいにマリアが不思議そうに言う。
「あれ? どうしたの。朝、こっちに寄るの珍しいね」
あおいはマリアに頷いて、黒沢課長の席へ急いだ。
「黒沢課長、もうご存じかもしれませんが、イースト店のすぐ近くに新しい総菜屋ができます。デリデザインです。以前、緑太郎社長あてにいらしていたことのある女性の会社です」
そのあおいを黒沢課長は複雑な表情で見つめた。デリデザインの一件であおいの心が閉じてしまった時期のことを、ずっと心配してみてきた。当の本人からデリデザインやら緑太郎社長やらの固有名詞が出たことに驚きながらなんとか答えた。
「いいや、まだ知らない。そういえば昔、デリデザインから提携の申し出があったとき、緑太郎社長が対応していたな……」
あおいは肩で息をしながら頷く。
「イースト店に出勤する前に、どうしても直接お知らせしたくって……。デリデザインさん、イースト店のすぐ近くに12月6日に総菜テイクアウトの店をオープンするようです。すでに外装はできていて、COMINGSOONの表示が出ていました。昨夜様子を見に行ったんですけど、すでにお店の人らしき人を見かけて、その人がですね……、信じられないんですけど……」
「春ちゃんだったってわけね!」
マリアが顔を怒りで真っ赤にして言い放った。
「そうなんでしょ、ねえ、このはちゃん」
小田桐このはも険しい表情だ。
「わかりませんけど、電話の声は確かに春田店長の声です」
「裏切者!うちをやめてすぐそばの同業他社に転職するなんて!」
マリアが吐き捨てるように言う。
氷川主任が眉を寄せた。
「信じがたいが……、時田くんがいい加減なことをいうはずがないし、小田桐さんの耳は確かなものだし……」
黒沢課長が「よっこいしょ」と立ち上がってジャケットを着た。
「許せん」
見たことのないような暗い目をしている。
「時田、行くぞ」
「あ、はい」
黒沢課長は、肩で風を切るような速足でオフィスから出て行った。あおいは仲間の顔を見渡してから、小さく息をのみ、バッグを抱え、中のマグカップをぎゅっと握るようにして黒沢課長の後を追いかけていった。
「こうなったら徹底抗戦ね!」
マリアの片方の眉がぴりりと上がった。
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