第59話 いい仲間といい仕事がしたかっただけなんだ

「私は、この『野菜たっぷり幕の内お膳』にします。お父さんは?」


「ああ、俺は天丼を」


 みどり食品創業者の天野源緑がこの秋から入居した老人ホームへ手続きに来た天野碧は久しぶりに父、天野緑太郎に会った。


 最近の会社の業績悪化によって思いがけず父の数字至上主義のワンマン経営をしていた気持ちが少しだけ理解できるようになった碧は、こわばっていた反発心を氷解させ、意を決して父をランチに誘った。


 二人が来たのは昔からよく家族で来ていたレストランである。


 インテリアは洋風のつくりだが、和洋さまざまなメニューを取りそろえている。


 なじみの店主が二人を見て懐かしそうに会釈をして出迎えた。


「お父さんは昔からここに来ると天丼ね」


「うん、そうかもなあ……」


 当たり障りのない、途切れがちな会話だがそこにはこれまでにない体温のようなものが感じられた。


「最近、業績が悪くてね。ようやく、お父さんがあんなに数字に厳しかったのが理解できたわ。鬼に徹していたことも……、ちょっとだけわかったわ……。私はまだまだ甘い。社員に嫌われたくないし、理想論ばかりよ」


 緑太郎は照れたように片頬をゆがめた。


「俺は……、逆だな。心臓やってから、後悔した。もっと、仕事を控えめにすればよかったんだろうなあ……」


 そう言って窓の外の雪が降る様子をしばらく見る。


 碧はそんな父を見て、きっと母のことを想っているのだろうと感じた。


「でも、仕方なかったものね……」


「仕方なかったじゃ、すまないこともある……」


 食後のコーヒーが運ばれてきた。


「お砂糖、入れる? ひとつ?」


 緑太郎が静かにうなずくと、碧は父のコーヒーに角砂糖を一つ入れてかき混ぜた。


 無言の時間がしばらく流れた。


「特にあれは、仕方なかったじゃすまないことだったなあ……」


「あれって?」


「総務の時田……。あいつは元気でやっているか」


「時田あおいくん? 今、よりどりぐりーん四店舗の統括で大活躍ですよ。ときおり元気なさそうなこともあるけれど、がんばっているわ」


「そうか……」


「時田くんがどうしたの?」


「いや、俺は意地が悪かった。なんかあいつ、透明感があって、ゆっくりしたテンポで、なんだかすごく俺と対極的でな。つい……、俺のやり方を強要して、ずいぶん厳しくした。そしたらなあ、あいつ、どもるようになってしまって……。そのあと少しして、俺の心臓病が悪くなって退任したんだ。ばちがあたったのかね。気になっていた……」


 碧はずいぶん長い時間をかけて何かがひとまわりしているように感じた。


 時の流れは直線ではなくて、ぐるりと輪になっているのだろうかと思った。


「時田くん、元気よ。どもっていないわ」


 緑太郎はとても長い溜息をついた。


「あいつに期待したんだ。あいつを育てようと思った。きっと育つと思った。あいつだけじゃない。みんなを育ててやろうと思った。そして皆でいい仲間になれると思った。俺は、ただ、いい仲間といい仕事がしたかっただけなんだ。碧、お前もそうなんじゃないのか」


 父が話すのをこんなに静かに聞いていたことはない。話しながら言いよどんで片頬をゆがめたり、顎を触ったりする癖は昔からだ。昔は反発心をもってみていた。でも今はその反発心がない。この人はどんな大変な気持ちで経営してきたことだろうという、聖なるおごそかな尊敬をもって、父を見ることができた。言葉がすーっと碧の胸に入っていく。


「はい。私も、ただいい仲間といい仕事がしたいだけです」


「碧ならできるかもしれない……。自分を信じろ。俺にアドバイスを求めるな」


 碧はこみあげてくる涙で鼻の奥がつんとした。


 どんな言葉も出てこなかった。


 ただ、こくりと深く頷いた。



***



 時田あおいは仕事帰りにナナカマド商店街を歩いてみた。


 昔からある古い商店街。3分の1ぐらいはシャッターが閉まっているが、喫茶店やラーメン店などが年季の入った店構えで今も営業している。コンビニも八百屋もクリーニング店も軒を連ねている。


 舗道に沿って植えられているナナカマドの実が赤い。それに連なるように立ち並んでいる街灯に「ナナカマド商店街」と書かれた、これもまたかなり年季の入った旗がつけられている。


 人通りは多い。立ち話をしている地元の主婦たち。ラーメン店へ入っていく高校生。喫茶店から物憂い様子で出てくるサラリーマン。ずっとここで、ナナカマド商店街はこの賑わいを作ってきたのだ。


 よりどりぐりーんイースト店は地下鉄から行くとナナカマド商店街の一番奥に位置する。その反対側、地下鉄に近いほうの商店街の端に、長谷川多津子が言っていた新しい店が出来上がっていた。


 白く光沢のある看板に、明朝体でCOMINGSOONというダークグレーの文字が書いてあり、それだけでおしゃれな店ができるのだということがわかる。


 そしてその下に、同じフォントの小さな文字で数行の文章が書かれていた。


<代官山で人気のフレンチレストランのシェフがコンセプトを手掛ける

お持ち帰り専用デリショップがオープンいたします。

優雅で豊かな食の喜びを、まいにちお手軽にあなたの食卓に。

          

デリデザイン 札幌東ナナカマド商店街店 12月6日OPEN>


 とんでもない強敵の出現だった。


 出来上がりかけている店舗外装は、大理石を使った豪奢なものだ。


 入り口へ続く砂利が敷かれたポーチの横には前庭もしつらえられていた。


 大きくとった窓は厚みのある高価そうなガラスがはめごろしにされていた。 


 あおいは足元の大地が崩れていくような気持ちがした。


「海外のデリみたいな飾りつけにしたいんです」と瞳を輝かせて画用紙でポップを作っていた本田美咲のことが思い浮かんだ。


 多津子さんがつくってくれた管理表に売上数字を入力しながら、このメンバーならきっと着実に数字を伸ばしていけると思っていた。


 このナナカマド商店街を行きかう人の笑顔を増やしたいと思っていた。


 他のよりどりぐりーんの店舗に水平展開できるように、まずはイースト店で結果を出すんだと思っていた。


 それらのことが、砂の城のように音をたてて崩れていくように感じられた。


 正面のガラスに反射して見えなかったが、よく見ると中に誰か人がいるようだ。


 忙しそうに両手に荷物を抱えてその人物はこちらへ背を向けたまま店の裏へ消えた。


 その背中を、あおいはとてもよく知っているような気がした。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る