第58話 何を受け継ぐのか
――文化の日かあ。「ていねいがいちばん。そんなみどり食品の文化をつくってきたんだ」ってよくおじいちゃん言ってたなあ……。
大学を卒業して東京に行くとき、祖父に連れられてみどり食品を見学したことを天野碧はいまだに印象深く覚えている。
札幌を離れる前に、祖父の手引きで社内を見てみたかった。
あの頃の碧は、母を亡くした心の穴をどうしていいかわからずとにかく大学での勉強に打ち込み、父との二人暮らしから逃げるように東京に就職先を見つけた。
ちょうど、祖父の代から父の代に、みどり食品の経営者が代替わりする頃だった。
「見てごらん、ここが厨房。こっちは配送センター。みんな真剣に仕事しているだろう。私の誇りだ……。碧、うちの会社はね、ていねいがいちばんというのをずっと合言葉にしてきたんだ」
「ていねいがいちばん……」
「そうだよ、碧。おじいちゃんがこの間読んだ本にね、『神々は見ている』っていう言葉があって、『ていねいがいちばん』とおんなじだなって驚いたよ」
「神々は見ている? 神様たちのこと?」
「そうそう。神様たちのことだ。昔、アテネのパルテノンの屋根に彫像を作ったフェイディアスというギリシャの彫刻家がいてね。フェイディアスは彫像が完成したから請求書を送ったんだ。それに対してアテネの会計官は「誰にも見えない彫刻の背中まで彫って請求してくるとは何ごとか」といって支払いを拒んだんだ。それに対してフェイディアスが言った言葉がとてもいいんだ。「そんなことはない。神々が見ている」って言ったんだよ」
「すごい……」
経営のことはわからないが、幼少期から尊敬してきた祖父の感度にかかった言葉として尊いものを感じる。碧は『神々が見ている』という言葉を記憶に刻んだ。
そしてその言葉はその後も碧にとって大切なものになった。
「おじいちゃんもずっとみどり食品で、誰も見ていないところも神様たちが見ているからていねいにやりなさい。時間がかかってもいい、これで完成だと思うところまでやりなさいって社員さんたちに言ってきたんだよ。それが「ていねいがいちばん」ということさ。緑太郎にも、ずっと伝えてきたんだけどねえ……。緑太郎はおじいちゃんと逆の経営者になりそうだ。まあ、それも時代の流れなんだろうな……」
みどり食品のお弁当に宿るあったかくてまじめな感じを、碧は小さい頃から感じ取ってきた。そしてそれは大好きな祖父から感じるものと同じだった。
碧は幼少期から祖父が大好きだった。
社長をリタイアした祖父が、その頃休みの日に趣味で描いていた風景画にも「ていねいがいちばん」を感じた。細かいところまできちんと描かれている実家の庭から見えた山々を遠くに描いた風景画。
「おじいちゃん、この絵すごい細かいね。フェイディアスだね。ねえ、おじいちゃん。これ、将来私にくれる?」
祖父、天野源緑は目を細めて孫娘の頭を撫で、「これは特にていねいに描いたんだ。わかってくれてありがとう。碧にあげるよ。人生に対して、手を抜きそうになったらこの絵を見て『神々が見ている』を思い出しなさい」と言って、その絵を渡したのだった。
それがあったから、碧社長は自分が三代目社長に就任するとすぐに、玄関ホールに祖父が描いたこの風景画を飾り、そして祖父から聞いたフェイディアスの言葉を飾ったのだ。
<"You are wrong," Phidias retorted. "The gods can see them."
フェイディアスは言い返した。“そんなことはない、神々が見ている”>
毎日この前を通るたびに、祖父の「ていねいがいちばん」という声が聞こえてくるようだ。
その祖父の体調が、思わしくない。
文化の日。街はどこも混雑していた。
不動産店での打ち合わせを終えた天野碧は、この祝日のうちにやっておかなければならないタスクのために、札幌市内を飛び回っていた。
朝いちばんで引っ越し業者との打ち合わせ、その後は不動産店での打ち合わせをし、今から老人ホームに向かう。
碧が生まれ育った実家は祖父の代から住み続けた家屋で、きびしい冬を何度も越えてもうすっかり老朽化している。
祖父であり、みどり食品創業者の天野源緑がこの秋から医療機関併設の老人ホームに入居することとなり、実家には誰も住まないことになるため、父と話し合って家屋の処分を決めた。どうしても好きになれない父との間柄はぎこちなく、話し合いも事務的な短い電話を数回して終わった。
碧の幼少期、「絶縁体の魔法」を教えてくれた祖母もここに住んでいた。この家の暖炉の前で、祖父が仕事の夢を話してくれるのが大好きだった。祖母と魔法使いの話をするのが大好きだった。
しかしみどり食品を継いだ父との記憶はあまり良いものばかりではない。
碧の父である天野緑太郎はみどり食品二代目社長として、主に法人営業に力を入れて会社を大きく拡大させた。
二代目緑太郎社長の時代は、売上数字こそがすべてあるというような結果至上主義へ大きく変化して、祖父と祖母が「みどりちゃん」というキャラクターをつくって「ていねいがいちばん」とほのぼのと暖かい食の喜びをつくり、従業員たちもそれを誇りとしてきた企業文化は古めかしいものとして感じられるようになっていった。
父である緑太郎は札幌市内のさまざまな異業種の会合に毎晩のように出かけ、経済界のパイプをつくっていった。母は留守がちな父を専業主婦として支え、天野家の血を受け継ぐ碧に学業優先の子ども時代を送らせ、見事碧が大学に受かるとそれを見届けた直後に急逝した。
碧は一人っ子。父と子の二人きりになったが、碧は父から逃げるように上京し、そして結婚したのだ。
離婚後、子ども二人を抱えて札幌に帰ってきた碧に、緑太郎は言った。
「うちで使ってやる。パートで総務に配属する。10年やって俺が許可したらお前は跡継ぎだ。結婚など二度とするな。信じられるのは身内だけだ」
絶望の中にいた碧は、その言葉にただ頷くだけだった。
父とは価値観が合わなくて何かと対立してきた。この言葉にも反発を覚えた。しかし今はとにかく二人の子を育て上げなければならないと碧は思った。そして、結婚など二度としたくないというのは碧も同じだった。
父と一緒に暮らすことだけは固辞して、小さい一戸建ての借家に娘たちと住むことにした。
社内から見る父は脅威的な存在で、社員はみんな父を怖がっていた。
まるで恐怖政治のように数字至上主義を振りかざし、てきぱきとスピーディーに結果に向かって一丸となって行動することを全社員に日々求め続けているのだった。
ていねいに調理をしているスタッフを叱責して、スピードを求めた。
何度も訪問して顧客と関係性を築こうとする営業マンのやり方を否定して、効率を求めた。
無駄をはぶき、売り上げに直接的に関連することだけをさせる。
そんな父の暴君ぶりを見ていると、幼少期から培ってきた根深い反発が碧の胸中にむくむくと沸き起こるのだった。
そしていつしか碧は固く決心するようになった。
――私が社長になったら、ていねいな仕事をする会社に戻す! 一日も早く社長になりたい! こんなやり方を終わらせたい!
そこからはがむしゃらに仕事をした。
娘たちのためもある。
父への反発もある。
時代への反発もあったかもしれない。
とにかく祖父の「ていねいがいちばん」を取り戻したかった。
自分の力でみどり食品を経営したかった。
10年といわれていたところを9年で、碧は三代目社長に就任した。
だからこそ社長になってすぐに一階入り口に、フェイディアスの言葉を掲げた。
祖父が描いた風景画を飾った。
「必ず取り戻すわ、おじいちゃん」
碧は自分の胸の中だけで、そう誓った。
「10年やって俺が許可したらお前が跡継ぎだ」というのは父自身の健康不安から来ていた発言だった。
9年目に心臓の持病が重くなった父が退き、碧はそこから心血を注いで社長業に没入してきた。
老人ホーム行きのバスを待っていると、足元を枯れ葉がカラカラと飛んで行った。空中に白いものがちらついている。雪虫だろうかと目をこらしてみると、それは粉雪のようだ。
碧は襟元のマフラーを結びなおした。
ようやくバスが来た。プシューという音を立てて停まる。
碧が降りるのは終点だ。後方窓際の座席に沈み込むように座る。
バスが動き出し、よく知っている光景が窓外を流れていく。
道を行く誰もが寒そうに足早に歩いている。
「実家を処分して再スタートします」
先日の会議で思わず言ってしまった自分の声が耳の中に蘇る。
―-どうしてあんなことをみんなの前で言ってしまったんだろう……。
業績が落ちてきている今、長年否定してきた父への気持ちに、微細な変化が起き始めていることが分かっていた。
数字至上主義だった父のとっていた行動の数々が、痛いほど理解できるようになってきたのだ。
自分が若さゆえに父を糾弾していたことが、恥ずかしさとともに見えてくるようになってきたのだ。
いつの間にか間もなく終点だ。
バスは大きくカーブして老人ホームの立っている丘へ登っていく。
――お父さん来てるかな。
老人ホームの白い建物が見えてきた。
バスが停まる玄関前ロータリーのところに、姿勢の良い男性が立っていた。
その立ち姿の生真面目さはずっと昔から知っている。
碧の目頭が熱くなった。
――お父さん……。
業績が悪くなってから父の気持ちが少しわかるようになり、長い間の反発心が少し変化し始めてきていた。
――お父さんとの関係を取り戻したい。
バスから降りると、緑太郎が微笑みながら近づいてきた。
「そろそろ着く頃かと思ってな……」
「お父さん、体調どう?」
「無茶をしなければ、この心臓は暴れないってお医者に言われてるんだ。薬を変えたら最近はわりといい」
「顔色、いいわ」
「そうか」
「おじいちゃん、どう?」
「あの人は大したもんだ。もう人気者になってるよ」
「まあ……」
大きな窓から札幌市内が一望できる。さきほどちらついていた粉雪は本格的な降り方になってきていた。
「ねえ、お父さん」
碧はその雪の激しい降り方の中に自分も漂うように長年せき止めているものを外した。
「帰り、ランチでも行かない? あの……、私……、仕事のアドバイスが欲しいの」
天野緑太郎は、眉を大きくあげて驚いた顔をした。
「そりゃ、雪が降るわけだ……」
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