第54話 つらい過去が誰かの毛布になるなんて

 誰かを心から抱きしめたいと思ったことなんて、人生で一度もなかった。

 自分の腕が羽根のように広がって、誰かをその中に包んであげたいと思うなんて。

 その存在のまるごとを、受け入れてあげたいと思うなんて。


 高校生の頃に彼女はいた。

 けれどもそれは恋愛ごっこみたいなものだった。


 いかにもデートっぽいことをして、なにかの拍子に手ぐらいはつないだかもしれないけれど、心からその子を抱きしめたいとは一度も思わないうちにお別れした。


 それから大学に入り、会社に勤めて、だんだん他人と自分の間に見えないシャッターが下りるようになっていった。


 できることなら誰にも、そのシャッターを開けてほしくなかった。


 本田美咲のことを好きだと思う気持ちはまだ萌芽が始まったばかりで、関係性さえ築けていないから、深い愛情をもって抱きしめるという思いの段階には至っていない。


 けれどもいま時田あおいは、不安定なガラスのような瞳からぽろぽろと大粒の涙をこぼしはじめたひじきのことを、心から抱きしめたいと思った。


 大股に歩いてベッドサイドへ行き、ギプスをした足に触れないように気をつけて、上体を起こしたひじきをふわりとまるごと抱きしめた。


「ひじき……、ひじき……」


 しばらくの間、古い子守唄にみたいにあおいはメロディをつけてひじきを呼んだ。


「ひじきい……、ひじきっぴー……」


 あおいの腕の中で、さっきまでの不安定なひじきがだんだん柔らかく優しいものに変わっていくのがわかった。


 もうふざけたり、変な顔をしたり、泣いたりという揺れはだんだんにおさまり、穏やかないつものひじきに戻っていった。


「ひじき……、大変だったね……。ごめんね、すぐ来れなくて」


 ひじきの眼が細くなって、顔が横に二三度振られた、


 ううん、いいの、と言っていることがあおいにはわかった。


 二人の親密な様子を感じて、横にいた本田美果は「またあとでね」と言って病室を出ていった。


 本田美咲の双子の姉だという美果がなぜここに。


 運命がからまっていくかのような不可思議だとあおいは思う。


 人生はすでにメンバーが決まっているのではないかと思ってしまうような偶然の怖さを感じる。


 美果の背中を見送りながら、不思議な縁の糸のからまりをほどきたいような気持になったが、それは今じゃない。この偶然は追いかけずに、このままふわりと人生に浮遊させたままにしておこう。きっと勝手にいつか答えが出るだろう。


――それよりも今は。


 あおいは心を集中させてひじきに向き直った。


 そしてひじきの頭をなでながら言った。


「大丈夫だからねー。ひじきっぴー……。声、また出るようになるからね……」


 ひじきは大人しく目を伏せていた。


「僕さあ、会社に入ったばかりのとき、どもりになったことがあるんだ」


 ひじきの眼がビー玉が転がるようにきらんと光を発してあおいを見上げた。


「僕さ、会社に入った年の夏まで、毎朝のように朝、トイレで吐いてから会社行ってたんだ。めぐりあわせが悪かったんだと思うんだけど、その頃うちの会社の社長って、今の天野碧社長の前の二代目で、天野緑一郎社長っていう人だったんだ。あ、いま、その人の名前言うだけでもちょっと苦しいんだけどね」


 初めて人に話す。


 ひじきにとっても初耳だ。


 いつもなら茶々を入れてくる頃合いだが、ひじきは静かにあおいを見つめている。


「その、二代目社長に大事なお客さんが東京から来たんだ。女優さんみたいにきれいな人でさ、絵本に出てくるプリンセスみたいにきれいな色の水色のワンピース着てた。君原さん、君島さん……。そんな名前の人だったよ。すっごくきれいな人。だけどすっごく冷たい人だったよ。その人の会社、デリデザインとか言ったかな、まだ東京だけだけど全国にこれから総菜販売の店舗ネットワークを作りたいとかって、それはそれぞれの地域の既存のお弁当屋さんとの出会いから生まれるんだとか言って、最先端みたいなかっこいい女の人でさ。そのときまだ4月だったからほんとに入社したばかりだったんだけど、総務に入ったばかりの僕がなぜかそのお客さんにあれこれする係になって……。お水買ってきたりとか、飛行機の時間伝えるとかそんなのだけど、やってたらさ、その二代目社長がかっこつけてあれしろこれしろ急げ急げって僕に言うから焦っちゃってさ……」


 話しながらあおいは口の中がねばついてきた。また吃音が再発しそうに口腔内の筋肉が固まる。


「で、それでさ……」


 でも言わなければならない。今はそれしかできない。


「飛行機までまだ時間ありますね、ってことになって、お昼時だったし、ちょうどバイク便が出ようという時にカレー弁当が一個余ったから社員誰か食べるかどうか聞いてて、それで、僕、何を血迷ったか、そのカレー弁当をもらって、走ってその女優みたいなお客さんにそのカレー弁当を持って行ったんだ。そしたらさ、焦ったあまりにつまづいちゃって、そのカレー弁当をその美しい水色のワンピースのお腹のところにどろりとかけちゃったんだ……」


 ひじきの眼が大きく見開かれた。


「そこからはさ、覚えてないよ。二代目社長がすっ飛んできて、平謝りして。僕はとにかくその場から去れって言われて。それからだよ、その二代目社長が僕に対して毎日のように目くじらを立てるようになったのは。確かに僕が不注意だったんだけど、毎日、毎日、ずっと僕を見ているんだ。一日何十回も眼が合うんだ。見られていると思うから緊張して、何かミスをする。するとそのミスを見つけて怒鳴るんだ。びびりまくりだったよ。ときどき、僕がミスするのを待っているかのように笑って仕事を振ってくるんだ。急ぎとか、焦る感じのものをわざと。そしてついに、何かの用事で社長に「タクシーを呼べ」って言われて、タクシーを呼ぶ電話をしたら、時田の「と」が出てこないんだ。ついに、壊れちゃったかと思ったよ。それから声出すの難しいのが続いたよ……。でもさ、今はもう平気になってるから……」


 話しながらも当時のことを思い出すと、また胸の動悸が激しくなる。


 叫びたいような、吐きたいような気持ちになる。


 けれどもあおいはいま、ひじきを守る側にいた。


 守る側にいるとき、過去の出来事はむしろ、ひじきを温める毛布になるとわかった。そう考えると過去はもうつらいものではなかった。


 こんなことがあったんだよ、だから大丈夫なんだよ、ひじきも声出るようになるよ。


 そう言いたくて、あおいは昔のエピソードを優しい気持ちのままで話し終わることができた。


 あおいの手を柔らかいものがぎゅっと握った。


 ふと見ると、あおいの手をプーさんのバスタオルのプーさんの手のところで、ひじきがあおいの手を包んでいるのだった。


 柔らかいものと柔らかいものが接するときに生まれる泣きそうなくらい優しい空気。


 この空気を人は一人でつくることはできない。


 そして誰とでもつくれるわけではない。


――ひじきのことを、とにかく大事にしよう。


 あおいは気がつくと自分の過去を、その優しい空気をつくるためのものとして使っていた。思い出したくもないつらかった日々のことを、いまひじきが楽になるのならいくらでも話せると思った。


 あんなつらい日々が、誰かの毛布になるなんて思いもしなかった。


 過去は書き換わるのだ。


 あおいは静かな気持ちになって目を閉じてひじきの指を優しくつかんだ。


 そして、二代目社長天野緑一郎と、デリデザインのあのきれいな水色ワンピースの女性のことを思い出した。


 胸が少し苦しくなったが、前とは違う感覚があった。


――僕はいま、ちょっとだけ過去を書き換えたのかも。


 あおいの内側に新しい強い力が宿ったような気がした。


 そしてあおいはまだ、もうすぐデリデザインの女性があおいの人生に再び現れることを、全然知らなかった。

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