第55話 聞こえてきたやばい話
「えっ、イースト店ですか? 少々お待ちください」
みどり食品総務課の席で問い合わせの電話を受けた小田桐このはは、通話を保留にして黒沢課長に尋ねた。
「課長、イースト店って移転とかの予定ありませんよね?」
「へっ? そんなのないぞ」
小田桐このはは「ですよね…」と言ってから保留を解除にし、通話に戻った。
「お待たせいたしました。イースト店の移転の予定は今のところございません。えっ? よりどりぐりーんの5店目の計画ですか?」
黒沢課長が「そんなのないない」と大きな声で言う。
「それも今のところございませんが……。はい、お問合せありがとうございました」
受話器を置いたこのははしばらくの間考えていた。
――今の方の声、どこかで聞いたことのある声だわ……。誰だろう……。
考えても思いつかない。そもそも耳のよいこのははいろんな人の声を覚えてしまうのだ。
「なんだった? 今の電話」
黒沢課長が聞く。
「つかぬことをお伺いしますが……って名乗らない男性の方でした。お店のご近所のお客様でしょうかね?」
「いろんな電話が来るもんだな」
このははあいまいに頷き、声を思い出すのをやめてパソコンに向き直った。
月曜日の午後である。
定例の営業会議が午前中に終わり、午後は在席している社員が多い。
いつも通りの会社の光景が繰り広げられている。
時田あおいがイースト店勤務になってからというもの、このはの業務量はぐっと増えた。
多分、時田あおいが意識していなかったほどささいなサイズの仕事が毎日たくさんあることがわかった。
これらはそのときに起こることのちょっとした処理や対応である。一つずつが数分程度で終わるものなので、あおいはこれらをマニュアルには残さなかった。
それは今のような電話応対だったり、来客対応だったり、イレギュラーな資料づくりだったりとさまざまだが、予測できないものであるため定期的な業務のほうをスムーズに処理しておかないとそちらのスケジュールに支障をきたす可能性もあるものだった。
――こういうのも、全部メモして一覧つくってみようかな。
このははそう思いながら、今日黒沢課長から頼まれた清掃業者の見積もり比較表を作成していた。
また電話が鳴った。
このははふと周りを見渡す。
清野マリアは電話中だ。コピー機のリース会社の営業マンと話している。マリアは本当にいろいろな人と仲が良いのだ。
黒沢課長は白河課長と立ち話をしている。みけんにしわを寄せて随分深刻そうだ。
氷川主任はパソコンの画面に顔をくっつけんばかりにして、電卓片手に何かを入力している。
――私が電話に出なきゃ……。
このはは自分の作業がこうして常に細切れに中断されることは仕方がないのだとなかばあきらめたような気持ちで受話器を取った。
「みどり食品総務課でございます」
電話の向こうからボリュームのある声が聞こえてきた。
「あ、おつかれさまです。あの、サウス店でアルバイトしてる赤塚です」
このははサウス店のある澄川が自宅からの最寄り駅なので、サウス店のことはいつもなんとなく気にしていた。
今電話をかけてきている赤塚という男性は、ときどきアルバイトに来ているあのさわやかな声の人だなと思った。
会社帰りにサウス店の前を通るときに、この声がとても心地よく響いていたのを覚えていた。
そんなことを思いながらこのは「おつかれさまです」と言った。
「あのー、実は、時田さんとお話ししたいんですけどそちらにいらっしゃるんでしたっけ?」
「時田さん、イースト店にいることがほとんどでして……」
「あー、そうなんっすね。じゃあ、イースト店にかけてみようかなあ……」
「今日もいると思いますよ」
「ありがとうございます!」
そのとき赤塚が話す向こうから大きな声が聞こえた。声の主とは距離があるようで聞こえづらいがどうも赤塚を𠮟責しているようである。「何やってんだ、こら」というような言葉が聞き取れた。
「あ、あ、すいません。じゃ、ありがとうございました」
電話は唐突に切れた。
受話器をもったまま、表情をくもらせているこのはを隣の席からマリアが驚いてみていた。
「どしたの? 何の電話?」
マリアが声をかけてくる。
「あ、今の電話、サウス店のアルバイトの赤塚さんからなんですけど、時田さん宛てなんでイースト店にいますよってお伝えしたんですけど」
「うんうん」
「なんか電話の終わりに後ろからどなってるっぽい声みたいなの聞こえまして……、赤塚さんを怒る声みたいなの」
「……江夏店長かな」
マリアは心当たりがあるような顔をしてそう言った。
このははそれに大きく頷く。
「ですよね、きっと。江夏店長って、私、苦手です」
「あー、ちょっと乱暴だよね。でもさ、江夏店長っていいとこもあるんだよ。私さ、前に札幌駅のカフェで江夏店長が女の人とデートしてるとこ見たことあるけど、めっちゃ照れながら一生懸命優しくしててさ、普段気性荒いけどかわいいとこあるじゃーんって思っちゃったー」
このははさらに顔を歪める。
「およ? だめ?」
マリアがこのはの顔をのぞきこむ。
「私、江夏店長、苦手です……」
「なぜにそんなに……?」
「私、家近くて、たまに会社帰りサウス店の前通るんですけど、お客さんいるのにアルバイトさんに怒鳴り散らしたりとかしてて、ほんとサイアクです……」
眉間にしわを寄せるこのはにマリアがぼそっと言った。
「サイアクなことって、そんなにしょっちゅうないと思うけどな」
このはは珍しくむきになって言い返した。
「マリアさんはいい人すぎます。素直で、元気で……。ほんとはもっと、落ち込んだり、やる気なかったりとか普通じゃないですか……」
マリアはこのはの反撃に驚いた。
「あの、私前から思ってたんですけど、うちのメンバーっていい人すぎるっていうか、みんな熱く生きているから、私が変わった人みたいに見えちゃってますけど、もっと赤塚さんとかのこと考えてあげてほしいです。赤塚さんが時田さんと話したいって言うのもそういう意味でなんだかとっても気になります」
「そっかー。貴重な意見ありがと……。私の悪い癖かもしれないわ……。あおいくんに今度聞いてみるよ」
このははマリアの返答にあいまいに頷いてパソコンに向き直った。
キーボードを叩きながら書類を作成していくが、どうもさっきのことが気になる。
――赤塚さん、大丈夫かな。心配。けど、時田さんに相談すれば大丈夫かもしれないな。だって時田さんは最近どんどん変化して頼もしくなっているから……。
このはは、自分と同じように人見知りタイプだと思っていた時田あおいの最近の変化を、興味深く見ていた。
――苦しそうに見えるときもあるけど、時田さんはきっと大丈夫。
このははお昼に隣のパン屋さんで買った紙コップ入りのカフェオレを一口飲んだ。
――時田さんには、あの赤いマグカップちゃんがついているからね。
そのうちチャンスがあれば自分もあの赤いマグカップと話してみたいものだとこのはは思った。
――時田さんがイースト店に行く前に、もう少しお近づきになればよかったかな。
ふふ、と猫背でキーボードを叩きながらロングヘアで隠れた頬を緩ませてこのはは静かに笑った。
そこへすぐ後ろから大きな声が聞こえてきた。
「なんだよ、じゃあ俺が辞めればいいってことかよ」
「そうじゃないって黒さん、落ち着けって」
「白河お前だっていい給料もらってるだろ。お前がいなくなったら人件費かなり浮くんじゃないのか」
「おい、声がでかいって」
今日もスマートなピンストライプのスーツに身を包んだ白河課長が、顔を真っ赤にして怒っている黒沢課長の腕を引っ張って廊下へ出ていった。
総務のメンバーは誰もがあっけにとられてそれを見送った。
「何あれ」
眉をしかめているマリアに、氷川主任が優しく微笑みかけた。
「多分……、午前中の会議のお話の続きではないでしょうか」
「何かあったのかな……」
このはがはっとした顔をした。
「そういえば……、さっき営業販売課の備品補充していたら、白河課長が営業メンバーにめずらしく怒ってました」
「なんて言ってた?」
マリアがこのはの方へ向き直る。
「はい。私会議に出てないので意味はわからないんですけど、『さっき社長が言ってただろう。実家を処分して再スタートいたします、って。あれやばいぞ。業績悪化を意味してるんじゃないか。俺たちが数字あげないと、つぶれちまうぞ。リストラだって始まるかもしれないぞ。お前ら本気出せ』みたいなことを、わあわあ言っていました。白河課長があんなふうに感情的なの珍しくて、なんか聞いちゃいました……」
氷川主任の銀縁眼鏡の奥の瞳が険しくなった。
「え……」
マリアの笑顔が固まった。
「やばいの…? うちの会社……」
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