第53話 不安定なガラスの瞳

 時田あおいは久しぶりの気楽な週末を迎え、マグカップとのんびりおしゃべりしていた。


――こういうときってたいていひじきから連絡来るんだよな。


 案の定、あおいのスマホが鳴り、ひじきからの着信だったのであおいはふざけて「もしもし、こちら、あらいぐまです」と電話に出た。


 すると、聞こえてきた声はひじきの声ではなかった。


「あれっ、こちら時田あおいさんの携帯電話ではございませんでしょうか」


 聞こえてきたのはやや金属質の音を含んだような、女性のビジネスライクな声だった。


 あおいは驚いてスマホを手から落としそうになりながらあわてて答えた。


「は、はい、時田ですけれど、えっと」


 電話の向こうの女性は要件だけをすらすらと言った。


「こちら札幌東総合病院から電話しているんですが、私は土方さんの付き添いのものです。土方輝一さんからのご依頼で時田さんにこちらにお越しいただけないかとのことです。土方さんから直接お話することができない状況ですので、ご来院をお願いいたします」


「えっ、病院、連絡できないって、えっと」


 そのビジネスライクな女性は病院の場所と病室番号、面会時間を告げると一方的に電話を切った。


 あおいの家から地下鉄で20分ほどかかる場所だった。


「ええと、タクシー? 地下鉄? どっちが速いんだ。何持っていけばいいんだ。財布と、携帯と、リュックに入れてと。あれ、カギどこいった、それからコート着て、あとは、えっと……」


 焦りながらワンルームの部屋を見回した。


 テーブルの上にちょこんと、今までコーヒーを飲んでいた赤いマグカップがあった。


「一緒に来てくれ」


 あおいは少し残っていたコーヒーを飲み干すと、マグカップをティッシュで拭いてリュックに入れた。


 マンションを出るとちょうどタクシーが来た。


 あおいはタクシーの前に飛び出しそうになりながら無理やり停めさせ、運転手に行き先を告げた。


「お兄ちゃん、あぶないよ。あんなふうに飛び出しそうになったら」


「すいません」


 前に抱えたリュックをぎゅっと抱きしめた。その中にあるマグカップをつかむ。


 マグカップは小さい振動を伝えてきた。


「ぶるるるる、ぶるるるる、あおいくんの胸、すごくドキドキしてる」


 タクシーの中なのであおいは返事をすることができない。


「ぶるるるる、ぶるるるる、あおいくんの体の音、いつもと全然違うよ」


 喉がカラカラだ。全身が鐘になったようにドンドンと音を立てている。手にはぐっしょりと汗をかいているのに、背中には氷が乗っているような寒気がするのだ。

 嫌な予感しかしない。


――ひじき!!!!!


 あおいはリュックの生地越しにマグカップを掴む手にぎゅっと力を込めた。


 まるでマグカップがお守りであるかのように、その存在に今すがっていた。


――マグカップくん。助けて。ひじきを、助けて。


 声には出せないが、ぎゅっと掴む指にその想いを込めてみた。


 するとマグカップから返答があった。


「ぶるるるる、ぶるるるる、大丈夫。大丈夫。たぶんきっとだけれど」


「えっ?」


 あおいは思わず声を出した。


「ぶるるるる、ぶるるるる、さっきの言葉も聞こえてるよ」


――そうなの?


 今度は声に出さずに指に力をぎゅっと入れて伝えてみる。


「うん。聞こえる、聞こえる。聞こえるっていうか感じるよ。だってそもそもボクたち食器同士はこうやって振動で会話してるから」


――食器同士!?


「そうだよ、あおいくん。ボク、会社の食器棚にいる黒沢課長と氷川主任のカップたちといつもしゃべってるんだ」


 マグカップの話はあおいの理解を超えていた。


 気づくとタクシーは病院についていた。


 言われた通りの病棟を探し、病室番号の案内図のままに足早に歩く。

 院内だから走るわけにもいかない。

 音が出ないような早歩きをする。

 いつの間にか言われた番号の部屋の前についていた。


 個室だ。「土方輝一」と書いている。


 あおいはさらに強い音で鳴る心臓を手で押さえながら息を整えた。


 そっと声をかける。


「すいません」


 ベッドの周りを囲っていたアイボリーの医療用カーテンがサーッと開けられた。


 そのベッドには、病院のパジャマを着た人が横たわっていた。顔のあたりはよく見えないが、あれがひじきなのだろうか。


 女性の背中で、よく顔が見えない。


 看護師さんではない。


 20代前半くらいだろうか。


 長い黒髪。柔らかそうな白いふわふわのセーターに、チャコールグレーのスカートを履いた女性。


 勢いよくカーテンを開け、こちらを向いてにっこり笑った。


「ほら、お友だちが来てくれましたよ。ひじきさん」


 あおいは、そのにっこり笑った女性の顔を見て、さらなる衝撃を受けた。


 その顔は、本田美咲であった。


「えっ、なんで、えっ、本田さん」


「あら? ええと、時田さんですよね? 先ほどお電話したのは私です。どうしても、時田さんに来てほしかったみたいで、私じゃ、だめみたいで」


 そう言ってその女性は病室には場違いなほどに大きな声で笑った。


 顔は本田美咲だ。しかし、声がまったく違う。しゃべり方も、笑い方も、全然違う。この人は別人だ。


「本田さん、じゃ、ないですよね……」


 あまりにも同じ顔を前にして、あおいはどうしていいかわからずにそう尋ねる。


 その女性はまた大きな声で笑ってから答えた。


「本田ですよ。どうして知っているの? 本田美果です」


「えっ……、あの、もしかして、本田美咲さんの……?」


「ああ、美咲の知り合いでしたか。美咲は私の双子の妹です」


 あおいが眼を見開いて驚いているのを、おかしそうに見ている眼があった。


 病床にはひじきが笑い転げていた。


「ひじき、おまえ……」


 ひじきは声を出さずに笑い転げている。あおいを指さして、手をたたく。


――土方さんから直接ご連絡することができない状況ですので。


 あおいは先ほどの電話を思い出していた。


「ひじき、声は?」


 本田美果が代わりに答えた。


「ひじきさん、事故のショックで突然声が出なくなってしまったんです」


 病床のひじきがはずかしそうにプーさんのバスタオルに顔をうずめた。


 よく見ると下半身にギプスがついている。


「事故?」


 美果が頷いた。


「演劇の練習の途中で、私の頭上に照明器具が落ちてきて、横にいたひじきさんが私を突き飛ばして助けてくれたんです。ひじきさんの右足に照明が落ちてしまいました。骨折じたいはそんなに複雑なものではなくて不幸中の幸いだったんですけれど、そのときからひじきさん、声が出なくなってしまったんです」


「声……、なんで……」


 ベッドの上のひじきは、変な顔をつくっておどけている。


――こんなときにまで、気を使いやがって。


「ひじきさん、来年やる舞台の役をもらったんです。ここ最近は、鬼気迫る勢いで役作りにのめり込んでいました。でもこの怪我では舞台に出るのは難しくなりました。そのことでショックを受けられて……、多分声が出ないのは心因性でしょうって……」


 おどけて変顔をしているひじきの不安定なガラスのような瞳から、大粒の涙が落ちた。

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