第52話 生まれつきのお役目?

 久しぶりに、何の予定もない土曜日がやってきた。


 賃貸マンション7階のワンルーム。


 東側の窓から秋の陽射しが散らかった室内を照らしていた。


 時田あおいはベッドの上で思いきり伸びをした。


――この陽射しの感じはもうお昼頃だな。あー、よく寝た。


 明け方頃まで絵を描いていた。思う存分絵を描くのも本当に久しぶりだ。


 時間を気にせずにゆっくり丁寧に描いた。何の制約もなく、思うままに線を走らせた。


 まだデッサンの段階だが、鉛筆で細い線を何万と走らせていくうちに、そこに息づく人物の顔が浮かび上がってきた。


 それは本田美咲の顔だった。


 毎日イースト店で一緒に働いているが、今はまだ自分の気持ちを伝えるつもりはない。


 こんなに大切に思う女性に出会ったことはないかもしれない。


 だから時間をかけたいし、自分の気持ちが一過性のものでないかどうかを見極めたい。


 それでも鉛筆を手にしたい欲求はずっとあった。


 丸みを帯びた白い頬の線。長く影を落とす睫毛。白い魚のような腕。一本に結び、背に流れ落ちるつややかな黒髪。そして、深い湖のように奥行きのある瞳。


 そんなにじろじろ見るわけにはいかない。


 しかしどうしても目が行ってしまう。


 外見にだけ心惹かれているわけではないが、特別なものと感じてしまいつい目が行く。

 

 あおいは、夕方の陽が美咲の頬を照らしたり、髪の毛が秋風になびいたりするのを見るたびに、これを絵に描かないわけにはいかないという強い衝動を、自分の内側に感じるのだった。


 誰に見せるわけでもないが、どうしても描きたい。


 最高の気持ちになったとき、きっとこんなふうに底抜けに笑うだろうという輝くような笑顔を描いてみたい。


 そう思っていた気持ちを、昨夜は明け方までかけて果たしたのだった。


 そこに本当に美咲がいるようなデッサンが、朝日が昇るころにできあがった。


 いつのまにか寝てしまった。


 長い睡眠時間を経て、たけだけしい焦燥感はどこかへ消え去ってしまった。


 なんだかとても穏やかで満ち足りた気持ちだ。


 人生が手中にあるような確実な感覚だ。


 自分にとって絵を描くとはこんなに心が整うことだったのか、とずっと絵を描いていないでいたことで遠ざかっていた感性がうるおう喜びに驚く。


「コーヒーでも飲もうか」


 今から日曜日の夜まで何の予定もない。なんて幸せなんだろうとあおいは思う。


 このところ疲れすぎた。だらだらしたい。


 久しぶりのゆったりした週末だ。


 こういうときは、ひじきから連絡が来る可能性がある。


「なぜかタイミングが合うんだよなー」


 念のため、掃除ぐらいしておこうかという気になった。


 まずは活動開始だ。


 寝すぎた体をほぐすため、軽い体操をしてから、あおいはキッチンのコーヒーメーカーをセットした。


「マグカップくーん」


 会社から持って帰ってきた赤いマグカップをバッグから出す。


 コーヒーが落ちる間、マグカップを両手でもって、きれいに拭く。


 いつのまにか、少しひびが入っている。あおいはそのひびを優しく指でなぞる。


「なんか最近バタバタしていて、おしゃべりしてなかったね」


 マグカップはとたんに震え始めた。


「ぶるるるる、ぶるるるる、あおいくんひさしぶり。話しかけてくれて嬉しい」


「ごめんなー。イースト店で話しかけるわけにいかないし、なんか行き帰りも疲れちゃって、話しかける余裕なかったんだ」


「ボクはあおいくんの振動をずっと感じていたからわかってるよ。ひとりごとも、聞いていたよ」


「ひとりごとなんて言ってたっけ?」


「えっ、気づいてないの? いっぱい言ってたよ」


「どんなこと言ってた?」


 マグカップはぶるるるると楽しそうに震えた。


「あのね、いっぱいあるよ。松雪店長に相談しなきゃ、多津子さんに伝えなきゃ、ウェスト店の新しいアルバイトさんの名札の件、確認しなきゃ、サウス店の赤塚くんはあれからどうしたかなあ、連絡してみようかなあ……」


「なんだよ、それ! そんなの全部声に出して言ってたのかー。はずかしいなあ」


「すっごい素敵だよ。あおいくん、そうやってぶつぶつ言いながら4店舗のことをいつも考えてるのすごいなあと思ってみてる」


 コーヒーができた。


 赤いマグカップに注ごうとして、躊躇する。


「あれ、君と話しているときに、君にコーヒーを入れて飲んでもいいんだろうか」


 マグカップはぶるるるると強く震えた。


「もちろん! それがいちばん嬉しいんだ。飲みものをボクに入れてそして飲みながらおしゃべりをしてくれるなんて、それが何より嬉しいんだよ」


「そういうもんなの? 話しづらくない?」


「すごく嬉しいんだよ。だってね、ボクはマグカップなんだ。ボクは飲み物を入れる器として生まれたんだ。自分の生まれつきのお役目をはたしているとき、最高に嬉しいんだよ」


「生まれつきのお役目かあ……。僕のは何だろうなあ」


「えっ、あおいくんわからないの?」


「わかんないよ……」


 あおいは思わず顔をしかめた。


 マグカップはそのあおいを励ますように言った。


「いちばんいい時に思い出すよ、きっと。ボクはマグカップだから簡単すぎだね! ……でもまあ、ボクは、それ以上の望みももってしまったけれど」


「それ以上の望み?」


 あおいは心を込めて、マグカップに優しくコーヒーを注いだ。そして、大切に両手でマグカップをもって、そっと一口飲んだ。


 マグカップはいつもより少し高い音でぶるるるると震えた。それは歓喜のようにも、感謝のようにも感じられる振動だった。


「もう、いま、それが叶っているから、ボクはこれ以上の望みは何もないよ」


「そうなの?」


「そうだよ、あおいくん。ボクは、モノだけれど、人間と友だちになった。あおいくんが小学生のときからずっと、ボクはあおいくんとお話ししたかったんだ」


「まさか、モノがそんなふうに思っているなんて……」


「あのね、あおいくん、ボクだけじゃないんだよ。この部屋にいるモノたちは、みんなあおいくんのことが大好きだよ。特にほら、あそこにいる……」


「ん?」


「ソファの上にいるあらいぐま。あの子はあおいくんのことをすっごく大好きだよ」


「え」


 あおいはコーヒーを飲む手を止めて、ソファの方を見てみた。ソファの上からこちらを見ているように見えなくもないあらいぐまと目があったような気がした。


「あのあらいぐまは、あおいくんとは話せないけれど、ひじきくんとは話しているから安心してるみたいだけどね」


「え、あれ、ほんとに話してたの?」


 そのときあおいのスマホが鳴った。


 案の定、ひじきからの着信だ。


「もしもし、こちら、あらいぐまです」


 あおいがふざけて電話に出ると、聞こえてきた声はひじきの声ではなかった。

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