第51話 魔物にやられないように

「あんよを土につけてはいけませんよ」


 天野碧がまだ小学校に入る前、よく祖母にいわれたものだ。


「碧ちゃんはどうしてすぐ靴を脱いでしまうのかしら。裸足でおそとを歩いてはいけませんよ」


 まだこの世界のことを何も知らない碧は、不思議に思って聞き返した。


「どうしてあんよを土につけちゃいけないの?」


 祖母は美しく生まれた孫娘のこれからの人生を想像した。もしかしたらこの子が会社を継ぐこともありうるかもしれない。気品を身につけさせておかなければ。


 そう思った祖母は、孫娘が大好きな魔法の世界のお姫様の話にたとえてみたら聞くだろうとこう言った。


「魔法の世界のお姫様は、自分の足を地につけたりはしなかったのよ。魔法の世界からやってきたのにこの地に足をつけてしまったらとたんに魔法が解けてしまうのです。だから昔からお姫様たちは高い高いお城の塔の上で暮らしていたのよ。どうしても外出するときにはお城の階段から馬車へ直接お乗りになったのです。日本のお姫様もお籠に入っていたでしょう。高いところにいらしたのよ」


 大好きな魔法の世界のお姫様の話を聞いて、幼い碧はとたんに眼を輝かせて祖母の足にからみついた。


「そうなの?」


「そうですよ。碧ちゃんも魔法の世界から来たお姫様でしょう。だから、裸足でおそとを歩いたら魔法がとけちゃうわよ」


「どうしたらいいの? 馬車なんてないよ!」


 慌てる碧の頭をいとおしそうに撫でて、祖母は言った。


「お靴をはきなさい。お靴をきちんとはいてお外を歩くと、お靴が碧ちゃんのあんよを魔物から守ってくれるのよ。絶縁体になってくれるの」


「ぜつえんたい?」


「あら、ちょっとむずかしかったわね。ごめん、ごめん」


 その話は幼い碧の頭の中に不思議なほどすうっと入っていった。


 鏡の中の自分を見るたびに、なんとなく自分は特別な子のような気がしていた。


 それは思いあがったうぬぼれとは少し違った。


 どうも周りの子どもたちが子どもっぽく感じられ、この世界で生きていくことに違和感を感じていた。自分がやや規定サイズからはずれているような違和感だった。


「やっぱり……」


 大好きな祖母からその話を聞いてから、碧は深く納得した。


 大人の女性のような美しさをすでに有している碧の顔は、周りの子どもたちから不人気だった。むしろ、気持ち悪がられたり、距離を置かれたりしていた。ときに横暴な男子がその大人びた容姿をばかにすることもあった。砂糖菓子のようにふわふわと甘い雰囲気をもった女子に人気が集まり、なぜか碧の美貌は女子たちからは完全に無視された。よって碧は自分を取り巻く子どもたちのコミュニティに対して、くつろいだ気持ちをもてずにいつも少し居心地の悪さを感じていたのだ。


「みんなと自分はちょっと違うのかな」


 ときどきそう思って悲しくなることもあった。


 ところが祖母から「あなたは魔法の世界から来たお姫様なのよ」と言われてようやくしっくりとこれらのことを受け容れることができたのだ。


「そうか……。そうだったんだ……」


 それから碧は土を裸足で踏まないように気をつけた。


――私は魔法の世界からここに来たお姫様なんだ。なにか野蛮な魔物がこの地の下で私の魔法を解くためにうごめいているんだ。魔法が解けたら大変だ。


 どんな魔法が自分にかかっているのか祖母は教えてくれなかった。

 あんなに自分をかわいがってくれていた祖母は、碧が小学校に上がった直後、桜の散る雨の日に亡くなってしまった。


 それ以来、祖母を想いながら魔法のことを考えるのが常になった。


 多忙で留守がちな父母の不在を埋めるように、祖母はずっと慈雨のように絶え間なく愛し守ってくれていた。


 そのあまりに大きな愛は、祖母が亡くなっても消失するものではなく、ずっと頭上から暖かく注がれるように思われた。


 祖母がいつも言っていた「魔法」。


 自分にかけられた魔法はどんなものだったんだろう。自分も魔法が使えるのだろうか。おばあちゃんが言ってくれていたんだから、ちゃんと使えるようになりたい。きっと使える。土を裸足で踏まないように、ぜつえんたいをはかなくっちゃ。


 そう思って暮らした。


 絶縁体と言う言葉を初めて小学校の理科の時間に学んだときは全身に鳥肌が立った。


――電気を通さないものを、絶縁体といいます。


 碧には、なんとなくすべてのものが電気のような気がしていた。自分がビリビリ感じているこの感覚。怒ったとき、泣いたときに全身に感じる振動のようなもの。お友だちから感じる暖かいビリビリや冷たいビリビリ。父親のキリキリしたちょっと怖い感じ。母親のハラハラする感じ。全部全部電気のような気がしていた。


 小学校の頃、いつも学校帰りについてくる大人の男の人がいた。全身が薄汚い感じがして、今にも手を伸ばしてきそうなほど近づいてくるのが嫌だった。早足でその男の人の方を見ないようにして帰った。あの男の人からはぞっとするようなビリビリを感じた。


 あまりにも続いたので父親に告げると、会社の人が来てくれて一緒に帰るようになった。父親と同じ年くらいの、頼りなさそうな人だ。


 でもその人から感じる電気は不思議とポカポカ暖かいものだった。


「あの男の人が怖いの。触ってくるの。ぜつえんたいの靴を履いて魔法で守るの!」


 そういう碧にその会社の人は碧が履いていた靴紐にキラキラ光るラメの緑色のレースを巻き付けてくれた。


「これで、ぜつえんできますよ」


 その人は入社したときから祖父母に可愛がられ、出世こそしていないがみどり食品のことをとても大切に思っているのだと言った。


 しばらくその人と一緒に帰っていたら、変な男の人は現れなくなった。


 こうしたことを経て、なんとなく碧の人生において靴が自分を守るアイテムとなっていった。


 普段、思い出すことのない幼少期のことを、いま碧社長はぼんやりと思い返していた。


 目の前では銀さんがハイヒールのストラップを付け直している。


 いつもながら見事な安心できる手さばきだ。


「そういえば」


 ふと気づいたように碧社長が声を出した。


「ん? どうしました?」


「銀さんには、絶縁しなくていいってことなんだわ」


「絶縁ねえ」


 碧社長は自分の足元を見て笑った。


 銀さんが床に敷いている布の上に、靴を脱いだ足をそのままつけている。


「おかしいわ……。私ったら。銀さんの前ではずいぶん安心しているみたいよ」


「長いつき合いですからねえ」


「靴を脱いでも大丈夫なんだわ。銀さんの前では」


「社長は本当に変わらない。また、緑色のレースを付けて差し上げましょうかね」


 碧社長はそれを聞いて高らかに笑った。


 月曜日の朝7時半。


 みどり食品にまだ社員たちは出社していない。


 いつも7時頃に来る銀さんに靴を直してほしいと思って、碧社長は早く出社したのだ。


「もしかしたら、靴を直してほしいから、だけじゃないかも……」


 銀さんが不思議そうに手元から眼を話して碧社長の顔を見る。


「何か、ありましたかい……?」


 碧社長はしばらく沈黙してから、ぽつりぽつりと話し始めた。


「苦しいの。とてもつらいのよ……。とてもピンチなの……」


 秋の朝の風は冷たい。


 二人のいるみどり食品の社屋の敷地入り口守衛室の前に、ビル風が吹きすさぶ。


 碧社長は風に乱れる髪を押さえながら、少しいらいらした口調で言った。


「今日、月曜日でしょう。この後全体会議をやるんだけれど、そこで私、冷酷な通告をするつもりなの」


 銀さんは黙ったまま、手元の作業を続けている。


「それはね、業績のことなの」


 しっかりとした手際の良さで、銀さんは淡々と作業を続けていく。


「今年度の概算でかなり厳しい状況が明らかになってきているの。発破を掛けなければ。このままでは業務縮小、人員削減ということになりかねませんと、言おうと思っているの」


 銀さんは、縫い付けた糸を丁寧に処理し、ハイヒールを布できれいに拭いた。


「ほい。できましたよ」


 自分の言葉に対しては何も言わない銀さんに、碧社長は少し不満そうに唇を尖らせた。


 その碧社長に、日焼けしてしわだらけの顔をくしゃっとさせて銀さんはにっこりと笑いかけた。


「社長……。人員削減っていう言葉は、社長らしくない言葉だねえ」


 目の前に、ハイヒールが置かれた。


 いつも思う不思議なことだが、銀さんが手をかけたものは、新品よりももっと魅力が増した心地よいものになる。


 碧社長はそのハイヒールをそっと履いた。


 何かが自分に戻ってきた。


 銀さんが自分に意見を言ってくることは珍しい。銀さんに言われた言葉が全身に薬のように効いていく。


「……私、何言ってるんだろう。やっぱりいま、ちょっと魔物にやられていたかもしれません」


「靴、脱いでたからね」


 銀さんがハハハと声を出して笑った。


 碧社長はすっくと立ちあがり、足の感触を確かめた。とてもなじみがいい。そして守られている。自分の力に、心地よい電流が走るのがわかる。


 銀さんが静かに頷いた。


 秋空は高く晴れていた。


 また一週間が始まる。


 碧社長は空に向かって言った。


「私は、社員ひとりひとりが幸せでいられる職場をつくった人として憶えられたい」


 銀さんはその碧社長を見て、静かにもう一度頷いた。

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