第50話 つながりはじめた糸
「ねえ、けんちゃん。私ね、この地球上に、まだ誰も知らない湖がきっとあると思うの。そして夜になるとね、その湖面が、月の光に輝くの。私、ドビュッシーの『月の光』を聴くと、その誰も知らない湖の情景が浮かんできちゃうの」
最近、ふとしたときに黒沢課長の脳裏に遠い昔の恋の相手であるマヤの声が思い出される。
――けんちゃん、おなかすいた。
時折イースト店に来ていたという謎の手紙。
「ひょっとして黒沢課長……。『おなかすいた』っていう言葉に特別な意味があるかどうか、ご存じですか?」
「さ、さあ? わからん……」
突然の退職を告げに春田が来たときにそう聞かれたが、黒沢課長は慌てて否定した。
しかし、あのときもう少し詳しい情報を春田に聞けばよかったと少し後悔している。
――春田の退職はずいぶん急だった。あいつ……、急展開で東京って……、変な話じゃなければいいんだけど。確か、金が入り用だと言っていたな……。
親の入院などで金銭的に困っているが何か制度はないかと相談されたことがあった。あのとき「そういった制度はうちの会社にはないけれど公的なものがあるから」と書類を取り寄せ、時田に持たせたことがあった。
それから相談は受けていなかったが、大丈夫なのだろうかと心配に思っている。
一度、電話をしてみたが出なかった。折り返しもなかった。それっきりだから今更また電話をしてあの手紙のことを聞こうにも聞けないのだ。
ましてやイースト店のアルバイトたちに聞ける話でもない。
――マヤ……。札幌に住んでいるのか? イースト店ということは東区にいるのか? イースト店の近くにいるのか? あれからどうしただろう……。もう、30年も前だ。きっと結婚しただろう。三橋マヤ子。みつばちまーやとふざけて呼んだこともあったっけ……。
黒沢課長は濃いインスタントコーヒーを一口飲むと、雑念を振り払うかのように頭を振って、書いていた書類に意識を戻そうとした。
金曜日の夕方、あと数十分で業務終了の時間だ。少し急がなくては。
「きたきつねラジオ、金曜日の夕方はリスナーの皆さんからのリクエスト曲をご紹介しております」
窓際に置かれたシャーベットグリーンのラジカセから、いつものように地元コミュニティFMの夕方のラジオ番組が聞こえていた。
「本日は東区にお住まいのみつばちまやこさんからのリクエストです。みつばちさんいつもありがとうございます。何か月か前にもこちらリクエストいただきましたけれど、私もこの曲大好きですのでまたお掛けしましょう。ドビュッシーの『月の光』。時刻はまもなく16時44分です」
ようやく週末を迎える、やや疲れた従業員たちを慰労するかのように美しい旋律のピアノ曲がオフィスに流れた。
ガタン!
音を立てて黒沢課長の椅子が真後ろに倒れた。
突然勢いよく立ち上がったからだ。
それぞれの仕事に集中していた総務課のメンバーがびっくりした顔で黒沢課長を見る。
「どうしました?」
氷川主任が黒沢課長の手元の資料が何なのかを見ようとする。
「大丈夫ですか?」
清野マリアが立ち上がっていって倒れた椅子をもとに戻す。
「……もしかして、ドビュッシーのことで何か?」
小田桐このはが何かに気づいたように言う。
「ドビュッシー? なんで?」
マリアが不思議そうに言うと、それをあわてて制するように黒沢課長が大きな声を出した。
「この、ラジオ局、なんていう局だ」
マリアがそこでようやくラジカセから流れるラジオのことだと気づいた。
「あー、これはきたきつねラジオですよ。ローカルネタが多いからおもしろいんですよー。うるさかったですか? ごめんなさい」
黒沢課長は何かを考えるように「きたきつねラジオね……」と言いながらスマホを持っていなくなった。
「何あれ?」
マリアがあきれたようにその背中を見送る。
廊下に出てきた黒沢課長の胸は早鐘のように鳴っていた。
「また、俺にサインを送っている。俺が聴いているかもしれない可能性にかけているんだ。何かあったのだろうか……。連絡しなければ……」
焦る手元でスマホを操作し、きたきつねラジオの代表電話番号を調べる。
何度も打ち間違えてようやく検索し、なんとか番号を表示させる。
「い、いま、リクエストハガキが読まれたみつばちまやこさんの、連絡先わかりますか?」
電話の向こうからは意外なことにしわがれた声の高齢男性が出た。
「ちょうどいま偉い人がいないんですよ。わたしは短期でアルバイトに来させてもらっているものなんですけれどね、リスナーさんからのそういう問い合わせには答えられないってことになってるようでしてねえ……。せっかくお電話いただいたけれど……」
その高齢男性の声に紋切型でない暖かさのようなものを感じた黒沢課長はなんとか風穴を開けようとその優しさに食らいついた。
「どうしても連絡を取りたいけれど、連絡先がわからない相手なんです。30年ぶりなので何もわからないんです。でもラジオを通して、私にメッセージをくれていることだけはわかったんです。なんかあったんじゃないかと心配で。さっきのドビュッシー、あれがサインなんです。ほんとなんです」
黒沢課長はそこが会社の廊下だということも忘れて、大きな背中を曲げるようにして誰もいない空間に向かって頭を下げて懇願していた。
「どうか、教えてもらえませんでしょうか」
しばらくの沈黙の後、電話の向こうの声がこういった。
「わたしも、ドビュッシーの『月の光』はとても好きですねえ……」
黒沢課長はどう返していいのかわからない。氷川主任なら気の利いたことが言えるのかもしれない、清野マリアならもっと単刀直入にズバリ何かを言うのかもしれない。
でもいま黒沢課長は、この高齢男性とつながっている電話が、まるで細い糸のように自分とマヤをつなぐ最後のチャンスのように思われて、ただ懇願することしかできなかった。
「『月の光』は、彼女と私の、ほんのささやかな会話に出てきたんです。でも30年経っても、その会話がまだ忘れられません。なにかあったんじゃないかと。それを私に伝えようとしているんじゃないかと、そう思うんです。だからどうか、頼みます!」
また電話の向こうがしばらく沈黙した。
やがて高齢男性がぽつりと言った。
「あなたはとても、運がいいかもしれませんね」
「え……」
「みつばちまやこさんは、わたしの知人なのですよ。三橋さんの個人情報をお伝えすることはできませんが、リスナーの方からこんな伝言を預かりましたと彼女に伝えることはできますよ」
黒沢課長は静かに言った。
「今度イースト店で買い物するときに、私、健二からの手紙を受け取ってくださいと伝えてください」
そして通話は終了した。
誰もいない空間に向かって、黒沢課長は深々と長いおじぎをした。
その様子を、洗い物の食器を手にした小田桐このはが、そっと見てつぶやいた。
「どうしてみんな、あんなに熱く生きられるのかしら……」
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