第36話 心の扉の向こう側が輝いている人
――今週末もゴルフなのかな。
今日アルバイトが休みの本田美咲は自室のベッドの上に座り込んでインテリア雑誌に読みふけっていた。海外のインテリアの写真を見ていると時間が過ぎるのがあっという間だ。力を入れて熱心に読んでいたことに気づき、寝転がって天井を見上げた。
札幌市東区の一軒家の借家。閑静な住宅地にあるこの家は、周囲の家より一回り小さい。チョコレート色のトタン屋根と建具にアイボリーの外壁。ブルーのドアが印象的だ。狭い庭には白樺やツツジ、ブドウとプラムの木が植えられている。
この家に引っ越してきたのは小学生の頃だった。
それからずっとこの6畳の部屋が美咲のプライベート空間だ。
姉と部屋決めをしたとき、窓の外に白樺の木が見えるこの部屋がどうしても欲しかった。姉は朝日が入る東南の部屋を希望したのでうまく姉妹のそれぞれの希望がかなえられたことになる。
南西向きの窓からいまたっぷりの西日が入ってきていた。白樺の葉っぱごしの夕陽の黄金色の木漏れ日を浴びるのが、美咲は大好きだ。
そろそろ夕食の支度をしなければと、美咲は読んでいたインテリア雑誌を閉じてベッドから立ち上がった。
姉の美果は今日はダンスのレッスンとやらで遅くなるのだという。最近劇団に入ってからというもの、しょっちゅう帰りが遅い。
――お姉ちゃん昨日も一昨日も遅かったじゃない。
結局いつも自分が夕食を作ることになるのだ、と美咲は不満そうに唇を尖らせて階下へ降りて行った。
いつからだろう、と美咲は過去に思いを馳せる。ものごころついたとき、両親は不仲になっていた。父親がいなくなれば母親が笑顔になるのだと思い込み、離婚のときにはずいぶん母親側に加勢した。
――あれで本当に良かったのかな。
あれからずっと美咲の母親は働きづめだ。
両親が離婚して、東京で通っていた小学校に別れを告げて、あっという間に引っ越しをして札幌に移り住んだ。
姉の美果はほがらかな明るい性格で、転校先の札幌の小学校でもあっという間に人気者になった。美果の美貌はアイドルのように周りを明るくし、その光につられるように周りにどんどん美果のファンができていった。
そんな美果と対照的に、美咲はいつも暗い表情をしてばかりだった。
美果が光輝けば輝くほど、美咲はその影のように暗く沈み込んでいくようだった。
それでも世間は美咲に対して、静かで大人しいミステリアスな美少女という評価を与えた。クラスの友人たちは美咲という美しくて、そして心のシャッターを下ろした少女に対して、少し遠巻きに憧れた。何人かの勇者がそのシャッターを開けようと果敢に美咲にアタックしたが、白くて美しいエーデルワイスの硬い微笑みが返されただけだった。
美咲にとってそれは寂しくも居心地の良い生き方となっていった。
母親はときおりそんな美咲を心配して、美果のように積極的に友人をつくり、人生を楽しむことを提案してきたが、美咲はそうする気にはなれなかった。
なれないままに、いつの間にか大人になってしまった。
毎日仕事で忙しい母親。友人との約束やさまざまな活動で充実している姉。それに対して美咲の毎日は判で押したようなものだった。
母親からずっと進学を薦められていたが、美果も美咲も高校を卒業してからすぐに働くことを選んだ。それは、ひとりがんばる母親を経済的に支えたいというよりは、ひとりがんばる母親とその娘たちという構造に対する息苦しさのようなものからだった。それぞれが働く女性が三人で暮らしているという構図のほうが、美果も美咲も息苦しくないのだった。姉妹はこんなところで同一の意見をもっていた。それは母親にはてんでわからなかった。どうして娘たちが進学をしないのか、自分への遠慮があるのではないかとひそかに悩んでいたほどだった。
姉の美果は地元の信金に就職した。美咲は自分が何をやりたいのか、どうしたいのかわからず、答えの出ないままに就職したくなくて、高校を卒業してからはアルバイトを数か所転々としていた。そのうち、人見知りなはずなのに接客業に面白さを感じるようになっていった。全国チェーンのインテリアショップのショールームのアルバイトを2年ほどやり、仕事が面白くなりかけて正社員登用制度について調べようとしていた矢先、世の中のオンライン化によってこの会社が札幌から撤退することが決まり、急に仕事がなくなった。
そこへよりどりぐりーんの求人があることを知り、母親には相談せずに応募して採用された。
美咲はさまざまなアルバイトをしてきたなかで、ひとつの能力を身に着けていた。
それは、商品を買いに来るお客さんたちの心の扉のようなものを知覚する能力だった。
よりどりぐりーんには、さまざまな理由でお客さんたちは弁当を買いに来る。
毎日昼に来る人達の顔ぶれはだいたい決まっている。近所の勤め先からお昼ご飯を買いに来る。お昼休みは1時間しかない。12時を数分すぎるといつもの顔ぶれが先を争うように弁当を買う。ぶっきらぼうな人。無理やり横入りをしてでも先に買おうとする人。そういう人に押しのけられて悲しそうに顔をゆがめる人。そういう人たちを批難するように見る人。12時半すぎまではこの世の中の縮図のようにいろんなタイプの人間がぎゅっと押し寄せて弁当を買っていく。
お昼の混雑が落ち着いた頃になると、近所の主婦が遅いお昼を買いに来て少しおしゃべりをしていく。いつも来るおばあさんが夕食のおかずを買いに来て、長くおしゃべりをしていく。ジャージを着た男性が大量の弁当を両手に提げて買っていく。
何か月もアルバイトを続けているうちに、美咲はどの客がどれくらい心の扉を開いているのかがだいたいわかるようになってきた。
それはビリビリとした感覚をともなう。まるで電気のように感じられる。
心の扉が開いている人は、暖かくポカポカした電気を感じる。こちらの言葉がすっとその人の胸に入っていく感じがある。会話のやりとりに奥行きがあるのだ。投げた言葉がその人の肉体を超えて、その人の生活や人生の方まですっと入っていく。
それに対して心の扉が閉じている人は、ピリピリとした冷たいような電気を感じるるのだ。こちらから何か言葉を投げかけても、壁のようなものにコツンと当たるだけで、声の返答は得られてもその壁の向こうにまでこちらが投げたものは入っていかない。
この美咲の感覚は、意識すればするほど鋭敏になっていた。
ところがここのところ、どうも納得がいかない人物が一人いる。その人のことが気になって仕方がない。
彼は最初会った瞬間はこれまでによく見かけた心の扉クローズタイプの典型のようだったのに、会って数分で驚くほど勢いよくその扉が開いた。
そしてそれからは見かけるたびに、いつも心の扉が開いている。
心の扉が開いているだけではない。
心の扉の向こう側が輝いているのだ。
そんな人は見たことがない。
その理由を、美咲はどうしても知りたかった。
――だからだわ。こんなにあの人のことばかり考えるのは。
美咲は冷蔵庫を覗いて、母親と姉に今晩何を料理しようかと考えた。
そんなときにまで、最近いつも美咲の胸を占めている男性のことが浮かんだ。
――時田さん、そういえばコロッケ好きだったっけ。
気づけばジャガイモをつかんだまま、美咲はあおいの切れ長の瞳を思い出していた。
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