第37話 私は仕事で自分を変えられるだろうか

 曇天の九月の朝。


 本田美咲は慌ただしく外出していく母親と姉を見送った後、自分もゆっくり出かける支度を始めた。


 よりどりぐりーんイースト店は春田店長が朝早くから出社して舗道を箒で掃いたり、店内の拭き掃除をしたりしている。


 美咲はいつも自分がその業務をやろうと名乗り出ようと思っていたが、結局春田店長はこの9月末で退職してしまう。


 春田店長の心の扉はいつも開いていた。しかしここ最近それが美咲に対して少しずつ閉じていっているような気がする。


 きっと自分のことを春田店長は気の利かない不愛想なアルバイトだと思っていることだろう。いろいろなチャンスがあったのに、結局春田店長に対してもっと力になれるようなことができなかったと美咲はアルバイトとして働き始めてからのことを思い出しながらイースト店までの通勤の道を歩いていた。


 他に大きな理由があるが、歩いて来れる場所というのも、ここでアルバイトをすることにした理由のひとつだ。


 ナナカマド商店街が見えてきた。舗道に立ち並ぶナナカマドの実はまだ黄色い。


 これからこの実が色づき、葉が落ちて、雪が積もり、この商店街がナナカマドの赤と雪の白の美しいコントラストになる頃、自分はまだここで働いているのだろうかと美咲はぼんやりと考えていた。


 いろいろと問題が山積みである。


 母親の問題。父親の問題。姉の問題。そして自分の人生。


 この九月末で春田店長が退職し、時田あおいが統括と兼務でイースト店の店長になるのだという。


 美咲は複雑な気持ちだった。


 店先で清掃をしている春田店長の姿が見えた。

 美咲が店に入っていくと、春田店長はくったくのない表情で笑いかけてくる。


「おはよう! 本田さん」


 喉がつまったようにとっさの声を出せない。緊張で言葉が飲み込まれてしまうのだ。


「おはようございます」


 ほとんど声にならない声で、うつむいたまま美咲は挨拶をした。


 春田店長は何か言いたげな顔をしたが、「さっそくだけど、銀行行かなきゃならないからちょっと出てくるね。来た早々ごめんな。清掃途中なんだけど、すぐ帰ってくるから」と言って出かけて行った。


「あ……、はい……」


 覇気のある「いってきます!」という声の残滓を空中に残して春田店長が去ると、イースト店はとたんにがらんとした空間になった。


 美咲は最近どんどん心の扉が開き、その扉の向こうがどんどんエネルギーに満ちていっている時田あおいのことを、脈絡もなくふっと思い出す。


――時田さんは、仕事で自分を変えたんだろうか。


 あおいにも自分と同じような人見知りの雰囲気を感じるが、それが払しょくされていき、あおいが生き生きと変化しているのを、美咲はここ数か月感じ取っていた。


――私も、仕事で自分を変えられるんだろうか。


 美咲は店内を見回した。


 立ち上げたままのパソコン。触らせてもらえないがある程度のパソコン操作はできる。春田店長はよくパソコンの前に座って何かの作業をしているけれど、自分にもできることはないだろうか。


 中央センターからのFAXや郵送物。紙で管理しているものを、もっと簡易化するお手伝いができないだろうか。


 店先の什器。いつも後ろのお客さんが背伸びをして商品をのぞきこんでいるけれど、店頭に写真入りのメニュー表を貼りだしたらわかりやすいんじゃないだろうか。


 美咲は普段なんとなく考えていることを思いつくままにメモしてみた。最近よく時田あおいが手帳にメモをする姿を見かける。自分も真似をしてみようと美咲は思った。


 美咲は春田店長が使っていた清掃用具を手に持った。自分の業務を始める前に、春田店長がやり残した清掃をやっておいてあげようと思ったのだ。しかし、清掃はほとんど終わりかけていた。春田店長はよく使い込まれた古いレジのボタンのひとつひとつまできれいに拭いている。床拭きも終わっているし、什器もきれいになっている。


「途中って、あとどこだろ……」


美咲がぐるりと店内を見渡すと、壁の高いところにあるホワイトボードの表示が昨日のままになっていた。拭いておこうと、美咲は靴を脱いで丸椅子の上に乗り、ホワイトボードの昨日の書き込みや汚れなどをウエットティッシュで丁寧に拭いた。


 集中していてすぐには気づかなかった。


 丸椅子の上に立ち、高いところにあるホワイトボードを両手で拭いている美咲の両方の足首が、誰かに後ろからぎゅっと握られた。


「きゃあ!」


 バランスを失って落ちそうになり、すんでのところで体勢を整えて丸椅子から落ちるように飛び降りた。


 何事と思って振り返るとそこにはニヤリと笑う近所の小学校低学年男子、カイの姿があった。


「なにすんのよ! ばか!」


 カイは店内をきょろきょろと見回した。


「おねえちゃん、いまひとり?」


「うん、そうだよ。店長さん銀行行ったから。でもすぐ帰ってくるみたいだけど」


「ふーん」


 カイはそういってこれから並べようとしている商品の箱をのぞきこんだ。


「あっ、だめだよ。売り物なんだから」


「一個ちょうだい」


「だめだよ、お金払わないと。どうしていつもそうなの」


「だって……」


「こんな朝から、お腹すいてるの? 学校は?」


 まだ朝の9時を過ぎたばかりだ。開店の11時前にカイが来たのはこれが初めてだった。


「今日、開校記念日」


「そうなの。家族の人は?」


「パパ、会社行った。ね、おねえちゃん知ってる? ここの店の裏にさ、よつばのクローバーいっぱい生えてんの」


「裏?」


 イースト店は古い一戸建てに入居している。この建物に入居しているのはイースト店だけだ。建物の裏側は荒れ放題の庭がある。たまに草刈りの業者が入るが、普段は雑草がぼうぼうに伸びている。この庭がカイの遊び場になっていることを美咲は知っていた。


 カイはしょっちゅう裏庭に来ては虫を捕ったり、裏口の蛇口から勝手に水を出して遊んでいる。そしてときおり、店長の目を盗んで店先から弁当をもっていくのだ。


 なぜかいつも美咲はそれに気づく。そしてだまってその商品の金額をレジに入れている。

 きっとわざと自分に見つかるようなタイミングでやっているんだろうなと美咲は思う。何かのメッセージを、カイは美咲に発しているのだ。


 カイは表情のない顔をこちらに向けてまるで棒読みのように言った。


「おねえちゃん、どうしてときどきうちのパパと歩いてるの?」

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