第35話 深くて遠いところから立ちのぼるもの


「江夏店長にとって、幸せって何ですか?」


 よりどりぐりーんの課題について再ヒアリングに来た統括の時田あおいにいきなりそう質問された江夏店長は、飲みかけていた水を思わず吹き出した。


「なっ、なんだよ。いきなり! 店の課題の話に来たんだろ。なんで俺の幸せとかわけのわからない質問してくるかなあ」


 江夏店長は気を悪くしたように不機嫌な声を出す。


「あ、すみません。突然すぎたかもしれませんが、僕はここから話を始めたいんです」


「どうして、俺の幸せと、店の課題が関係あるんだよ」


 持っていたグラスの水をあおるようにぐいと飲んで、江夏店長はあおいをにらんだ。


「すみません。関係あるというか、僕はこの統括の仕事を通じて、店長四人の幸せの実現をお手伝いしたいんです。そこから、よりどりぐりーんの課題に向かっていくべきなんじゃないかって思うんです。店長たちが幸せじゃないのに業務上の課題解決を先にやっても、それはなんだか違う気がするんです」


「おう。言うなあ、お前。でもよ、幸せってちょっと目標としてはレベル高くないか。お前、俺にとっての幸せ聞いたらひっくり返るぜ」


 あおいは出されたパイプ椅子の背にもたれずに、姿勢を正したままノートを開いてペンを持った。


「教えてください。江夏店長の幸せってなんですか?」


 江夏店長は、肩をすくめて「しゃーねーな」と言い、どっかりと座りなおした。


 使い古した赤いジョギングシューズに真っ白な靴紐。白い靴下。どんなに乱暴な物言いをしても、どこか清潔感のある人だ、とあおいは思った。


「俺の幸せはな、仕事と全然関係ないんだ。それでも聞くか?」


「もちろん」


「そっか。お前、変なやつだな。あのなー、俺の幸せはな、今の彼女と結婚することだ」


「わあ、いいですね」


「うん。お前、時田だっけ。時田、彼女いんの?」


「いません、いません」


「そっか。好きな子は? いんの?」


 あおいはなぜかイースト店の本田美咲の顔を急に思い出して赤面し、うつむいた。


「お! いるな? その顔は」


「ちょっとわかんないんですけど……。それでそれで? 今の彼女さんと結婚するんですか?」


 江夏店長は「う―――――ん」と、腕を組んですごく長いうなり声を出した。


「なんか、かっこ悪いんだけどよ……」


 ちょっと声をひそめて話し出す。


「うちの彼女さ、俺の職業に対してちょっと馬鹿にしてるとこあるんだわ。こんなふうにジーンズ履いて、店頭で弁当売って……。俺はここがいいからここにいるんだ。最適だからジーンズなんだ。でもなあ、もっとパリッとした職業でよ、びしっとスーツ着てよ、クールでかっこいい感じの男がいいってこの間言われちゃってな」


「え、そうなんですか」


「そうなの。俺、プロポーズまだしてないんだけど、ちょっと今それ言われてから保留中。なんか、俺じゃだめなのかなーとか思ってさ。はは」


 取ってつけたように渇いた笑いを追加して、江夏店長は頭をかいた。


「なんだよ。言わせるなよ、こんな。なあ、みじめったらしいよなあ」


「そんなことないです」


 あおいの眼はまっすぐ江夏店長を見ていた。


 小学生のあの夏にひと夏かけてリンゴを描いたときと同じように、いまあおいの眼はそこにいる江夏店長のすべてを知覚していた。


 履き古しているけれど清潔そうなジョギングシューズ。決して彼女のことを悪く言わない。決してよりどりぐりーんで働いていることも悪く言わない。アルバイトの赤塚にも、統括のあおいにも態度を変えない。そして自分の店舗だけでなく他の店舗のことを考える視座の高さ。


「すごい、かっこいいです。江夏店長」


「はあ、お前何言ってんの? だいじょうぶ?」


「はい!」


 あおいの胸に降りていたあの強固なシャッターは、相手に関心を持つ魔法をやるようになってからどこかへなくなってしまった。そして、すべてをメモする魔法をやるようになってから、統括という仕事の定義が明確になり、相手の幸せに照準を合わせられるようになった。


 これらができるようになって初めての店長ヒアリングだ。


 いま、あおいは新たな手ごたえを感じるようになっていた。


――めちゃめちゃ素敵な人だ!


 二つの魔法を得てのヒアリングをしてあおいがいま感じている手ごたえは、その人が魅力的に見える、その人が好きになる、そしてその人の幸せを叶えるのを手伝いたいという気持ちだった。それらは泉から吹き出すエネルギーのようにあおいという命のどこか深くて遠いところから立ちのぼってくるものだった。初めての感覚だったが、どこか懐かしく、そして枯渇しないことを信頼できる確かなエネルギーだった。


「ま、そういうことよ。俺の幸せはその彼女と幸せになること、かな。でもめっちゃ微妙な状況ってわけよ! どうだ、レベルたけーだろー! ははははは!」


「江夏店長、4店舗合同研修やりましょうか。この秋にでも」


「おい、いきなり話飛ぶな」


「いえ、飛んでないです。同じ話です。4店舗合同研修やりましょうよ。研修というか、レクリエーション的な会にしましょう。詳細は僕が企画します。場所は、みどり食品中央センター敷地内でやりましょう。銀さんに相談してカフェのテラスみたいにしちゃいます。お店を休みにして、思いきり楽しみましょう。そのレクリエーションは、大切な人を誰でも連れてきていいことにしましょう。江夏店長、彼女さんを連れてきてください。よりどりぐりーんを、みどり食品を、見てもらいましょうよ。うちの、みんなが笑っているうちの空気を見てもらいましょうよ。天野碧社長が、本気の思いで作っている、社員ひとりひとりが幸せでいられる職場を、見てもらいましょうよ!」

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