第33話 願わくば私はこう憶えられたいわ
8月29日(月)曇り 26度
15:00 よりどりぐりーんサウス店(地下鉄南北線澄川駅徒歩2分)
店長 江夏洋太(えなつようた)36歳 入社3年目
・前職はスーパーマーケット勤務(副店長まで経験している)
・みどり食品に転職してからずっとサウス店勤務。今年1月から店長職。
前回のヒアリング(7月21日)
・4店舗合同で研修をやってみては?
・キャンプやスポーツなど、店をクローズして会社で研修を企画してほしい。
――はあ、今日のアポは江夏店長か……。緊張してきた……。
時田あおいは深い緑色の手帳に今日もたくさんのメモをしている。
この後行くサウス店店長のアポイントの前に、事前情報をあらかじめ記入しながら、ため息をつく。
押しの強いはきはきした江夏店長は、あおいにとってちょっと苦手なタイプだ。
再ヒアリングのアポイントを取ったときの電話では「統括かあ! めっちゃいい仕事じゃん! 俺がやりたいくらいだよ。俺、いっぱいいいアイディアあるから全部俺の言うとおりにしたらいいよ。月曜日に来たとき、いろいろ指導してやるからな!」と言っていた。
自分の軸をしっかりした状態でアポイントに行きたいとあおいは思い、昨日の日曜日の午後、この手帳に向かって「統括という仕事の定義とは」というテーマで考えていた。
どうも答えの出ないまま月曜日を迎えていた。
時間が迫ってきたので、中途半端な気持ちのままあおいは席から立ち上がり、階段を降り、ぶつぶつひとりごとを言いながらみどり食品の社屋を出た。社屋の敷地入り口守衛室の前に守衛さんがいる。あおいの様子を見て「お、行ってらっしゃい。ほら、ちゃんと前を見て。車に気をつけてな―」と声をかけた。
はっと我にかえったあおいが守衛さんのほうを見ると、彼の横には天野碧社長がいた。碧社長のバッグの持ち手を、守衛さんが直している。
みんなこの人を銀さんと呼んでいる。
あおいはなんとなく立ち止まってその様子を見る。
「この間もヒール折れたの直してもらったし、銀さんほんと器用よね」
「社長がこうして何でも頼ってくれるから、社員さんたちも私にいろんなモノの相談してくれるんだ。ありがたいねえ。なんだかしらないけど朝から晩まで大忙しだよ」
「銀さんは私の命の恩人だから」
「それは大げさな」
「本当よ。あのとき、靴に魔法をかけてくれたものね。忘れないわ」
「私も忘れられませんなあ……」
「社長になってからもそうよ。着任早々、壊れた椅子を直してもらった時の銀さんの手際の良さがすごすぎて、これは絶対忘れちゃいけないことだと思ってすかさずメモしたの。それからいろんな人に銀さんすごいんだよって言って回ったわ。もし銀さんがいま忙しくて困ってるなら私の責任よ!」
「社長は私を守衛としてだけじゃなくいろいろ生かしてくれる。やりがいあるよ」
銀さんはそういってペンチを器用に操り、あっという間に取れていたバッグの持ち手をあざやかな手つきでしっかりと付けた。
「すごい……」
なんとなく見ていたあおいが思わず声を出す。
「すごいでしょう。銀さんの仕事は、本当にていねい。神々もうっとりするほどよ」
碧社長が自分のことのように顎をあげていばって見せる。
銀さんは「ははは」とうつむいたまま笑う。
「では行ってきます」
あおいが軽く会釈をした。
「いってらっしゃい。今日も店長ヒアリングかな?」
そう聞く碧社長に、あおいはふと思いついて質問した。
「あの、社長。一個質問いいですか」
「はい、何でしょ」
「あの、前に教えてくれた「すべてをメモする」なんですけど」
銀さんは空気を読んでそっと道具類を片付け、直ったバッグのほこりを拭いて社長に渡した。
「銀さん、ありがと。ほんと、丁寧」
「ていねいがいちばん、ですから」
「わはは、本当ね。神々は見ている」
銀さんは静かに頷いてその場を去った。
碧社長は何かをかみしめるように静かに笑ってからあおいのほうに向きなおった。
「どう? 「すべてをメモする」ってあなたならできると思ったけれど」
あおいは思わず頭をかいた。
「いやいや、すべてなんて無理だってわかりました。だから自分で統括の定義をしないと、そもそもメモができないってことだけはおぼろげながらわかってきました」
碧社長はバターを舐め終わった猫のように口角をあげて笑った。
「いいね、いいね」
「それであの、質問なんですけど」
「はい、どうぞ」
「社長は、毎日たくさんメモをされていますけれど、メモする基準っていうか、社長はどんなふうにご自分の定義をしていらっしゃるんですか?」
「私の定義? そんなの聞いてくれた人あなたが初めてよ。……そうね、願わくば私はこう憶えられたいわ」
碧社長はわざとらしくのけぞって見せた。
「私は、社員ひとりひとりが幸せでいられる職場をつくった人として憶えられたい」
「えっ」
あおいの胸の奥で大輪の花がいま開くように、目の前の風景が変化した。
殺風景な社屋の風景がバラ色に輝きだし、碧社長はスーツを着込んだやり手のキャリアウーマンではなく慈愛に満ちた女神であるように感じられた。
何もわかっていなかった。
この会社の雰囲気を、なんとなく幸せなこのムードを、日々真剣につくっている人がいるなんて、思ってもみなかった。
そのために毎日手帳が真っ黒になるほど社員の幸せに関することをメモしている人がいるなんて、考えてもみなかった。
売り上げや、競合情報などをメモしているのだとばかり思っていた。
今日までの碧社長の言動に、すっと筋が通ったようにつらぬかれる納得があった。
「だから……、氷川主任のバームクーヘンとか、銀さんの特技とか……」
「そうそう、私が毎日メモしているのは、社員の幸せに関することよ!」
あおいは何か大きなヒントをいま眼前に発見しているように思った。
――そうか、そうか……。
サウス店のアポイントの時間が迫っていた。
あおいはもう怖くなかった。
「ありがとうございます! 行ってきます!」
碧社長に深々とおじぎをすると、秋風の吹き始めたさわやかな午後の街へ、あおいは勢いよく歩き出した。
――よりどりぐりーんの店長たちの幸せ、アルバイトさんたちの幸せ、お客さんたちの幸せ。それが、それが統括の仕事だ!
歩き始めたあおいは、どんどん歩調が速くなり、今すぐ走ってサウス店に向かいたいような気持になっていた。
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