第32話 自分を定義せよ

 結局、カルボナーラだけでは足りなかった。


 ひじきとの時間はあっという間に過ぎ、夜半過ぎになってからホットケーキを何枚も焼いた。なぜかぐりとぐらの話題になり、バターたっぷりのホットケーキが食べたくなったのだ。


 泊っていけばいい、とあおいが言ってもひじきは地下鉄の最終で帰っていった。


 今朝起きてあおいがいちばん最初に感じたことは、バター過多のホットケーキによる胸焼けだった。そして二つ目に感じたことは、ひじきに対する心配だった。


「ゆっくり話聞いてくれる?」と言っていたはずのひじきはひとしきり泣いたあと、あおいが作ったカルボナーラを美味しい美味しいといって食べ、その後はなぜか黙り込んだ。


 失恋したという話を、もしひじきが話したいならいくらでも聞こうと思った。何度か話を振ってみたが、ひじきのほうからその詳細は聞けなかった。失恋をしたという結論だけしか、結局ひじきは言わなかった。


「さっきの話……、詳細いくらでも聞くよ」


 そうあおいが言うとひじきは「うーん……」とうなって首をぶんぶんと横に振った。


「やっぱ、いいや。なんかね、話したいと思ったけど、話すと心がぐちゃぐちゃになりそうだから、もうちょっと落ち着いた頃にまたここに来てしゃべることにする」


 それならせめて楽しく過ごそうとあおいは考え、やさしい毛布のように安心できる話題を見つくろっていろいろなことを二人で話した。高校時代のことからはじまるとりとめのない話を何時間もした。


 共通の思い出。予定調和の笑い。安心して話せる話題の数々。あおいはとてもリラックスした時間を過ごした。ひじきも一緒に笑っていた。


 ホットケーキを食べ終わった頃、あおいはよりどりぐりーん統括になってからの心境の変化をまたしみじみ語った。話しながら、この話題はやさしい毛布だろうかとふと思い、ひじきの顔を見てみると愛しい我が子を見るようにあおいに微笑んでいた。


 ひじきはあおいの仕事の話を聞き、あらためてその成長を賞賛した。


「すごいよー。それに、そんなふうにときどき魔法をくれる社長なんて聞いたことがないね」


 ひじきはあおいの話を楽しそうに聞いていた。


「そうなんだよ。周りに関心をもつ、すべてをメモする。この二つをやり始めてから自分が少し変わった気がしてきてる」


「少しじゃないんじゃない。あおいっぴー、なんか顔つきが精悍になってるよ」


「なんかね、ちょっとみなぎってるかもしれないんだ。前よりはね。やる気的なものが」


「だって店長ヒアリングだけしていればいいわけじゃないでしょ。いろんな業務が増えたんじゃないの?」


「うん。いまいろんなデータを集めて、さかのぼって比較したり、今後の予想値出したり、そういう資料づくりですごい時間かかってる」


「だよなあ。データってきりがないもんね。さらに「すべてをメモする」ってどこまで情報集めればいいかわけわからなくならない?」


 あおいは昔からひじきのこういうところが大好きだった。ひじきと話していると、口調は軽いのにただの話題が本質的になっていくのだ。


「そうなんだよ! ひじき!」


 ずっとぼんやり思っていることが言葉になりそうだった。


「統括の仕事に関係あるすべてをメモする、ということを物理的に可能にするにはさ、自分の軸が必要な気がするんだよ」


「自分の軸?」


「そう、この場合さ、統括って何をやる仕事なのかっていう、自分の仕事とは何か…みたいな……」


「自分を定義せよ! ってことだね!」


「そうそうそうそう! 自分の仕事とは、統括とは何ぞやという定義。この軸がないと、アンテナ張れないから「これは統括の仕事に関係あるからメモしよう」という行動がとれない!」


「あ……」


 ひじきはしばらく黙り込んでからぼそっとつぶやいた。


「自分を定義せよ、かあ……」


 そこからひじきはぱあっと明るい表情になった。


「そっか、そっか! 自分は誰かという定義がないと、人は迷える子羊ちゃんになるのだ!」


 そうしてひじきはあおいに何度もありがとうを言ったかと思うと、門限の厳しい女の子のような表情になって「帰らなきゃ」と小首を傾げ、あらいぐまをぎゅーっと抱っこして「また来るから」と言ってから風のように玄関から帰っていった。


 最後まで失恋の話はできなかったが、最後に一言だけ玄関で、「自分がバラバラになるとこだった! 自分を定義してなかった!」と笑った。


――なんかヒントになったのならいいけどなあ。まあ、またそのうち連絡してみよ。


 あおいはひじきへの心配を追い払うことなく自分のまわりに浮遊させながら、散らかった部屋を片付けて、洗濯機を回し、明日の月曜日の予定を確認するために手帳を開いた。


 明日はサウス店の江夏店長の再ヒアリングのアポイントが入っている。


――江夏店長か……。緊張してきた……。


 押しの強いはきはきした江夏店長は、あおいにとってちょっと苦手なタイプだ。


  前回のヒアリングのメモには、


・4店舗合同で研修をやってみては?

・キャンプやスポーツなど、店をクローズして会社で研修を企画してほしい。


 とある。


 再ヒアリングのアポイントを取ったときの電話では「統括かあ! めっちゃいい仕事じゃん! 俺がやりたいくらいだよ。俺、いっぱいいいアイディアあるから全部俺の言うとおりにしたらいいよ。月曜日に来たとき、いろいろ指導してやるからな!」と言っていた。


――江夏店長のアドバイスの通りにするんじゃない。統括は僕だ。統括の仕事を、もっとしっかり定義してから、明日のサウス店アポに行かなきゃ。


 あおいは今日というこのまっさらな日曜日を、「統括という仕事の定義とは」というテーマを考える日にしようと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る