第31話 どん底にいる友人

 今、あおいは二つの魔法を手にしていた。


 まず一つ目に授けられたのは「関心をもつ」という第一の魔法だった。


 天野碧社長からその第一の魔法を授けられてからというもの、目の前の人に関心をもつことに注力してきた。


 すると不思議なことにやればやるほど、恐怖や不安によって長年閉めていた頑丈なあおいの心のシャッターが、本人がおどろくほどに軽やかにするすると開いていくのだった。


 それは周りの人との人間関係に優しい風を吹かせ、居場所を心地よくする効果もあった。


 それだけじゃない。


 シャッターが開き、そよ風が吹くようになったあおいというシステムの機能そのものに変化が生じていた。


 あおいの眼は、心地よく清らかにまっすぐに周りを見ていた。山奥の湖のようにただ静かに澄んでいた。


 あのりんごを描いた夏のように、対象をただ見つめることができるようになっていた。


 自分でも、いま自分の眼が本来の活動を始めたことがわかっていた。


 そして先日、また天野碧社長から二つ目の魔法を授かった。それは「すべてをメモする」という魔法だった。


 統括の仕事に関係あることを、毎日すべてメモしていく。


 ウエスト店の萩野店長に再ヒアリングに行ったとき、あおいはまるでりんごを描いたときのように、萩野店長の話を細かく聞いた。メモをして文章で描写するために聞いたので、質問は微細になった。奥行きが生じた。時間軸が大きくなり、視座は高くなり、視点は多様化した。さまざまな角度から、さまざまな種類の質問をして、宙からりんごをまるごと取り出すかのごとく、萩野店長から話を聞きだした。


 聞いた話に自分の解釈は入れなかった。とにかく取り出したものをそのままに、その日のうちに微細なピースのままメモしていった。

 メモをするという習慣は、最初めんどうかと思ったが、やってみるとさまざまな変化を感じた。それは毎日目の前を過ぎていくこの時間を、何かに投射しているようであり、刻み付けているようでもあった。そして脳の機能が拡張されたかのように、人の話を格段に記憶できるようになった。



***



「ぜんっぜん、違うんだよ」


 週末の今日、あおいは久しぶりに自宅に友人の土方輝一、略してひじきを招いていた。


 お互いに忙しくてしばらく連絡を取っていなかったが、ふと気になって電話をかけてみたら、ひじきも今夜あたりあおいの家に行きたいと考えていたところだったようだ。


 気の合う友人同士にはこういうふわっと思ったことがかちっと現実化するタイミングの整合があるようにあおいは思った。


「違うって何があ?」


 ひじきは我が家に帰ってきたかのようにあおいの家に入るとソファにどすっと沈み込んだ。


「ここんちのソファのやわらか硬い感じ好きなの」


「そう? いま、コーヒー淹れるね。最近仕事でメモを細かくするようになったんだけどさ、毎日の気分が全然違うんだよ」


「ありがとー。わかるよ。文字を書くとさ、書いた自分も書かれた文字も同時にしゃきっとしていく感じ、あれ好きだな」


「なにそれ。やっぱ面白いね、ひじきの独特トーク。今日はゆっくり聞くわー」


 あおいはそう言ってキッチンに立ち、白いコーヒーメーカーにモカの粉をセットした。


 心地よい沈黙が訪れ、やがてコーヒーメーカーがコポコポと音を立て、モカの香ばしい匂いが室内に漂い始める。


「いい匂いしてきたね」


 ひじきがソファの上のあらいぐまのぬいぐるみをぎゅうと抱きしめる。


「あらいぐまちゃん、元気だった? どうしてたの。ねえ、ちゃんと俺のこと覚えてる? 覚えてないの? ひじきっちでしょ!」


 あおいはくつろぐ友人の姿をコーヒーメーカーから立ち上る湯気越しにしみじみと見つめた。


 昔は少し苦手だった。


 無邪気に生きているひじきに対して劣等感をいつも感じていた。


 それはうらやましいという健全な感情とは少し違っていた。


 まっすぐなものを見るからこそ、自分がねじ曲がっていることに気づくような、そんなまぶしくてこちらを傷つけるまっすぐさだった。


――なんか今日違うな。


 あおいは自分の心の変化に気づいた。劣等感がない。ひじきはひじきなんだ。


――すごくいい個性だ。


 優しくみつめるあおいの視線に、ひじきがすぐに気づいた。


「えっ! なに? その、湯気の向こうから微笑む的なのこわいんですけど」


 あおいは大笑いして、出来上がったコーヒーを注ぎ、「何かお菓子食べたい?」と聞いた。


 ひじきは嬉しそうにふにゃっと笑顔をつくると、「なんでもいいよ。何チョコでもいいよ」とあらいぐまの顔を腹話術のように動かして答えた。


「チョコ食べたいってことね。はいはい」


 それから二人は近況報告をした。あおいは自分がよりどりぐりーん四店舗の統括になったこと、天野碧社長から二つの魔法を授かったことを、行きつ戻りつ時間をかけて説明した。その間ひじきはコーヒーを飲みながらうつむいて小さく相槌を打って聞いていた。


 話すことがなくなって途切れても、しばらく沈黙だった。


「だいたい僕はそんなところかな」


 あおいがそういうとひじきはようやく顔を上げてニカッと笑った。


 そして眼に賞賛の色を乗せて言った。


「あおいっぴー、すごいね……」


 ひじきがこんなふうに自分に賞賛を向けてくるなんて初めてなのではないだろうかとあおいは思った。どうしていいか分からずあおいは「ははは」と笑った。


「すごすぎるよ……」


 ひじきはまだじっとあおいを見つめている。


 照れくさくなったあおいは「ひじきはどうなの?」と聞いた。


 そういえばいつもなら自分の話をどんどんしてくるひじきが今日は自分の話をまだしてこない。


「俺かー?」


 抱っこしていたあらいぐまを横にきちんと座らせると、ひじきは自分も姿勢を正した。


「あおいっぴー。俺は今ね、けっこうなどん底にいるよ」


「どん底? ええと、銀行辞めて、演劇始めて……?」


「そうそう。銀行は6月末で辞めて、7月からすぐ劇団入った。まだ2か月くらいかー。もう2年くらい経ったような気がする」


「演劇が、つらいからどん底なの?」


「いや、演劇は最高。あのね、失恋したの」


「えええええっ、いつの間に。え? 誰?」


 ひじきはあまり見たことのないような眼をして自嘲気味に笑った。


「俺みたいに自己肯定感が高いやつが失恋するとどうなるかわかる?」


「全然わからない」


「ぽきってなるの。心が」


 ひじきの両目からすーっと涙が落ちた。


「え……」


「今日はここでゆっくりしていっていい? 話聞いてくれる?」


「うん、いいよ、何か夕ご飯つくろうか。何がいい? パスタくらいしかないけど」


 ひじきは涙を拭くとにっこり笑った。


「なんでもいいよ、何ボナーラでも」

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